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菅江真澄 (1788), pp.245,246
舊烏銕川をわたりて、上烏銕の浦といふやかたに巳のとき斗につく。 [烏銕 : 宇鉄─津軽半島最北端に位置]
此浦人はもと蝦夷の末ながら、ものいひ、さらに、ことうらにことならず。
近きむかしとやらんに鬚そり頭そりて,女も文身あらて、そのけちめなし。
うらのをさ四郞三郎といふかもとに宿かる。
むかしは浦々に蝦夷や多かりけん,にぎえぞ [和人の生活に同化したアイヌ] ,あらえぞ [同化しなかったアイヌ] などもはらいへり。
猶ありたりし母衣月の弊岐利婆か末の子を又右衛門といひ,松か崎の加布多以武,その末を今は治郎兵衛といひ,藤島の牟左訶以武、いまその末は清八といひ、字氏通の久麼他可以武か末なるは、此宿のあるしの四郎三郎なり。
此四人の保長とて、濱名浦の七郎右衛門をいまもおやかたといひ,としのくれなとには刀万府てふ、海狗に(似)たくふ,うな(海)のけものを小島のあたりにとりて,その濱名のをとながもとに土毛にをくりたりしよし。
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高倉新一郎 (1959), pp.1-3.
蝦夷地とは蝦夷によって占拠された地方を指す。
蝦夷とは、日本の国の歴史が始まって以来その東北部に居住していた先住民で、日本の国の主流を形造った人々からは異民族視され、それに対抗する一大勢力であった。
それが単に風俗・習慣を異にするにすぎない同胞であったか、全く先祖を異にする異人種であったかは今のところはっきりせず、時代によって、その呼び方も、えみしといい、エゾと呼ぴ、蝦と書、狄と認めていたが、その勢力は本州の半ばに及んでいた時代があったらしい。
しかし、日本の国の主流を形造った人々──これを異民族と対比させて大和民族と呼ぶ──の勢力がのびて来ると、次第に東北に向って後退して行った。
そして大和平野を中心に国家が形成された頃には、関東北部から新潟県北部を結ぶ線の以北に後退し、鎌倉末期には津軽海峡以北に縮まり、足利末期には大和民族の先端は海峡をこえて北海道本島南部に進出するにいたった。
したがって、蝦夷によって占拠された土地はことごとく蝦夷地と呼んでいいわけだが、歴史の上では最後の段階において蝦夷によって占拠されていた部分だけを指し、津軽海峡以北の島々はこれを蝦夷ヶ島、もしくは蝦夷ケ千島、その以前には蝦夷の国と呼んでいた。
すなわち蝦夷ケ島の内、和人と呼ぴならわされている大和民族によって占められていて、当時松前と呼ばれ陸奥国に属していた部分を除いた蝦夷ケ島及びその東北に続く島々をふくむ地方を蝦夷地と呼んだ。
ここにいう蝦夷地とはこの意味である。
したがって取扱う地域は、今日の北海道本島以北の地で松前と呼ばれた地方を除いたものであり、時代はこの区別が画然とした徳川初期以後のことである。
当時日本人の蝦夷地に対する知識は樺太島及び千島列島までであったから、蝦夷地といえば松前を除いた蝦夷島、すなわち今日の北海道本島に樺太・千島を加えたものとなる。
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「アイヌ」は,上述のように<場所・時期>で規定される「蝦夷地」に対し,「蝦夷地に棲んだ者全体」と定義されるのみである。
「アイヌ」を知らない者は,「アイヌ」を形相的に想像する。
形相的に想像するとは,「アイヌ」を「人種」のように想像するということである。
しかし,「アイヌ」は,「人種」あるいは「血統」に基づかせるような定義ができるものではない。
「アイヌ」を「人種」「血統」に基づかせられないのは,生態系は種が遷移するところだからである:
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山本多助 (1948), pp.25-27
古い時代には裸族、穴居族そして、漁労をせず、山狩りをして暮らしていたという山狩り族がいたのだと古老たちが語っていた。
裸族というのはオササンケ・カムイのことである。
オササンケ・カムイはふだんは腎部を覆うこともなく、全裸で暮らした人びとだが、冬期間は毛皮をまとっていたという。
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次に挙げる「シリ・ウン・クル:大地・在る・御方 (土着の御方)」はアイヌ民族の古事物語によく登場する実在した人びとである。
シリ・ウン・クルに次いで古い民族は「トイ・チセ・クル・コッチャ・ウシ・カムイ:穴居族のそれ以前に存在した神様」というが、これという話はなかった。
そして次は「トイ・チセ・コロ・カムイ:土・家・在る・神様 (土の家に住む神様)」である。
穴居生活をしていた人びとだが、夏は天幕生活をしていたといわれている。
トイ・チセ・コロ・カムイの異名が「コロ・ポッ・ウン・クル:蕗の葉の下に住む神様」である。
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十勝地方の古老たちに「穴居生活をしたことがあるか」と尋ねたことがあるが、古老たちは「ない」と言った。
ならば「穴居の跡は?」と再び尋ねると「あれはトイ・チセ・コロ・カムイ (土の家に住む神様) の穴居跡である」と言った。
次のカムイ族、カムイ・ウタラ (神である同胞) はアイヌ民族である。
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そして「アイヌ」を「人種」「血統」に基づかせられないもう一つの理由が,「和人との混血」である。
実際,「人種」「血統」は今日のことばでは「DNAタイプ」だが,「アイヌ」と表象すべきDNAタイプは,存在しない。
翻って,「アイヌ」を専ら<場所・時期>を以てカテゴリー化できるのは,松前藩/江戸幕府の蝦夷隔離政策 (「夷の儀は夷次第」) のたまものということになる。
和人との混血があっても,それが蝦夷地の中でおさまっている限り,「アイヌ」のカテゴリーは保たれるのである。
実際,和人との混血は,蝦夷地の中でおさまる。
「隔離」のうちには,蝦夷地に和人の女を入れてはならないことが含まれていたからである。
この構造は,明治政府になってお終いになる。
アイヌ系統者の,外地進出が始まるわけである。
こうなると,アイヌ系統者の追跡は無理になる。
こうして,<場所・時期>による「アイヌ」の定義も,無効になる。
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喜多章明 (1936), pp.90,91
現在に於ける旧土人人口は昭和十年の調査に依れば別表に示す如く三千七百十三戸、人口一万六千三百二十四人にして、是を明治五年以来の統計に徴するに明治五年の一万五千二百七十五人より一進一退の状態にて大正五年に一万八千六百七十四人となり、その後亦多少の増減を示しつつ今日に及んでゐる。
然し之は表面の数字のみであって、事実は毎年四百人乃至五百人宛増加してゐる。
一年に四百人宛増加したとしても、十年には四千人、明治五年以来六十五年の間には二万六千人増加しなければならぬ勘定になるが、統計数字から見ると依然として一万五千内外に停頓してゐるのは、如何なる理由か。
それは宛も満々と湛へられた盥の水の中に一滴の朱を注いだやうなものであって、アイヌ族は漸次同化に依り、混血に依って九千万の大和民族中に吸収され、融合されつつある。
揮然たる一体になりつつあるが為である。
土人と言ひ、和人と言ふもそれは単に事実上の呼称であって、現行の法制上では何等の区別がある訳でなく、等しく平民である。
従って従来住馴れた古潭から離れて他府県、他市町村の一般和人部落に入込んだものは、皆和人となって調査される。
国後島には幕末迄三千人もゐたアイヌは概ね函館に移住したのであるが、今日函館には一人もアイヌはゐないことになっている。
それは血族的にアイヌが亡んだのではない。
同化に依って、アイヌ人たる社会的存在を失った迄である。
是は単なる一例にしてその他府県に、或は一般市町村内に、アイヌ人と呼ばれないアイヌ人はザラにある。
一万五千と言ふ人口は、保護法に依って和人の不入地とされてゐる古潭を基礎として調査したものに過ぎない。
近来はアイヌ人も文化が進み、知識が向上するに従って時勢に目覚めたものは、いろいろな職業を求めて他府県、他市町村に転出する。
転出したものは和人となり、転出する技倆もなく、古潭に停ってコツコツ旧慣を墨守するものはアイヌ人として調査され、アイヌ人として遇せられ、アイヌ人として差別されてゐると言ふのが、現在の実相である。
尤も古潭にあるもの総べてが生活技倆に乏しいとは断言出来ないが概してその傾向がある。
アイヌ人と和人との雑婚は歳と共に増加してゐる。
現在アイヌ人にしても和人の家に入れるものは八百人、和人にしてアイヌ人の家に入れるものは六百人、かくて両種族は融然として相融合しつつある。
この結果はいやが上にも純粋土人の数を減ぜしめている。
本道土人の人口が増加しない理由はざあっと以上のやうな理由に胚胎するのである。
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アイヌは終焉した。
そしてこの「終焉」は,つぎの二つの意味が合わさっているわけである:
《アイヌの生活は,既に無い》
《個人に対する「アイヌ」の同定は,既に不可能》
引用文献
- 菅江真澄 (1788) :『率土が濱つたひ』
- 『菅江真澄集 第5』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.197-254.
- 内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記 2』(東洋文庫), 平凡社, 1966, pp.107-134
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
- 山本多助 (1948) :「釧路アイヌの系図と伝説」
- チカップ美恵子編著『森と大地の言い伝え』, pp.21-84
- 喜多章明 (1936) :「旧土人保護事業概説」
- 喜多章明『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.79-105.
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