商品経済は,取る者と取られる者をつくる。
<取る>の経済用語が,「搾取」である。
<取る>は,<取り尽くし>に進む。
<物を持つ>には<所有の物理的限界>と<飽きる>があるが,<金を持つ>にはこれがないからである。
和人とアイヌの関係は,このようになっていく (育っていく)。
取られる者は,取る者に対し反感・恨みを持つ。
この反感・恨みは,暴力の形で爆発する契機を俟っている。
この<反発・恨み>を,「寛文蝦夷乱」(1669, シャクムシャイン蜂起) を記した『津軽一統志』「巻第十」から,拾ってみる:
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『津軽一統志』「巻第十」, 1731
北海道(編)『新北海道史 第7巻 史料1』, 北海道, 1969. pp.83-200.
pp.184,185.
六月廿日に、ほろもいの澗に、與市の狄九人参侯間、
様子相尋申候得は、我等共松前えつくなひ出申筈に松前殿通路の者に申越候得共、未参不レ申候。
つくなひにて御取被レ成侯御事か、又は我々共殺被レ成候か、
様子相知れ不レ申候間、松前殿御船かと存様子聞に参候。
近所四ヶ村の狄共與市え皆々詰罷在由申候。
去年シャクシャイン方より申越候は、
松前殿より商船参候はゝ此方にて皆々打殺可レ申候間、
其方えも参候はゝ,殺可レ申候、
其方にて殺不レ申候はゝ、其方の狄共皆々討殺可レ申由申候間、
我等共も去年商船殺申候由、松前殿御仕方も惣て悪敷御座候。
米弐斗入の俵も、唯今は七、八升計宛入、大分の押売被レ成候。
其上俵物にあたり、串貝の一束もたり不レ申候へは、来年は二十束にてとられ、出兼申狄は子供しちにとられ申候。
諸事の仕形左様に御座候て、狄共難義に及申候。
就レ夫〔狄共〕差発申候と申候。
石狩のハフカセ申候由、我々先祖は高岡え参商仕候。
松前殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゝ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく由申候と、物語申候。
p.186,187
六月廿五日に
與市の大将三人 そうやの大将一人るいしん大将一人おとな分の者五人御船え参申候は、
松前殿より通路の者に当五月被二仰越一候は、
高岡より御状参候は,御状に狄共方よりつくなひ取ゆるし可レ申由、
つくなひ出し不レ申候はゝ、〔高岡より〕助勢の舟大分御越、
狄共不レ残御たやし可レ被レ成候由申来候間、早々つくなひ出し可レ申候哉、
返事可レ仕の由、
松前肢より被二仰越一候に付、
松前殿計にては何共不レ存候得共、
高岡の殿様おそろしく存、
つくなひ出し可レ申と御返事申候得共、
未取に参〔不〕レ申候故、
無二心元一存罷有候処、
高岡の御船参侯と先々より申開候得は、定て狄共御殺し被レ成候。
先船にて可レ有二御座一候と驚申候処に、
御慈悲深狄共存入御聞届け、
松前殿へ御異見被レ仰、
ゆくゆくは狄共首尾能様子被レ成可レ被下の旨被二仰聞一,とふとく奉レ存候。
松前より被レ成様委申上候。
志摩守様御代に御慈悲深く,狄俵の米弐斗入にて諸事商被二仰付一候。
近年は米七、八升入にて前々のことく此方のうりもの御取替被レ成、
其上万の商おしかい無理悲道に計被レ成、殊に松前え我等事参候事もかたく御法度に被ニ仰付一候得は、皆々狄共餲申候に付、とてもケ様の被レ成方にては行さきつゞき申間敷と何も野心に存、是は蔵人仕置にてケ様に罷成申候。
余り迷惑に存、與市の大将チクラケ七十にあまり候得共、
御訴訟のため又当御代御目見仕度存候て松前え参候得は、御法度の所え参候とて、首を切髭を切とて、色々御せめに逢、漸々命たすかり罷帰、其折節面目なく存、蝦夷促し軍仕筈に御座候へとも、仲間より異見申候に付堪忍仕罷有候。
去年毒の酒にて蝦夷共大将分御殺被レ成候由、下の国にては弐、三人相果候と、シャクシヤイン申越候。
下の国にてもしやも船殺申侯間、上の国にでも殺侯へと申越侯に付て、しゃも船殺申事偽無二御座一候。
此由高岡の殿様え被二仰上一可レ被レ下の由申候。
p.188.
六月卅日に しりふかの大将カンニシコルのなまいの澗え参申候は、
去年拙者共殺申候子細は、
前々志摩守様御代には米弐斗入の大俵にて、干鮭五束宛御取替被レ成候、
近年蔵人仕置に罷成、米七、八升入にて干鮭五束宛御取替被レ成候得共、狄共之義御座候得は、不レ及二是悲一其通に差上中候、
余り迷惑に存,近年は度々御訴訟申上候得共、
年寄たる蝦夷共我儘申候間、毒酒にて年寄狄の分御たやし、若狄計に可レ被レ成御相談にて、はしはしにて右の酒にて相果候由及レ承、
しりふかの狄共気遣に存、御酒も不二申受一、迚もヶ様に御たくみ被レ成候て、末に御たやし可レ被レ成と存候処、
下の国にて毒の酒にてあまた相果侯由承、就レ夫シヤクシヤインも商船殺申候由承、
上の国にても迚ものかれぬ事と存、しやも船殺申侯。
御慈悲さへ御座侯はゝ何にしに此方より左様の義可レ仕候哉、此段高岡の殿様え御披露被レ下たく由申候。
右のカンニシコル申候は、
近年〔は蝦夷〕あち商に松前より御越候て、拙者共取候川にて大網おろし、鮭すきと御取、上方え商に御越被レ成候に付、
左様に被レ成侯ては蝦夷共取申鮭無二御座一候て、餓死申候間、拙者共に取せ御買被レ下度由色々御訴訟申上候得共、
松前の知行所にて候間、取申に我儘申とて御打たゝき、其上にても少も拙者共取申侯鮭やすく御買被レ成候得は、何共迷惑仕候。
ヶ様の事に付て蝦夷共一揆を発申候。
此段被二仰上一被レ下度由申候事。
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反乱は,鎮圧される。
鎮圧は,力の強弱の関係が決定的であるときは,支配強化政策に進む。
力の強弱関係が微妙であるほど懐柔政策との組み合わせが要点になるが,「寛文蝦夷乱」は,力の強弱の関係がはっきりした場合であった。
<支配関係>は,<支配する・支配される>の関係ではない。
支配する役・支配される役のロールプレイ関係である。
反乱に際して,アイヌは,支配される役に自分が就かねばならないことを見出す:
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高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
pp.63,64
今、寛文九年蝦夷乱当時の各地の蝦夷の動きを見ても、その時叛乱を起したのはほぼ長万部・寿都を結ぶ線から太平洋岸は白糠・十勝、日本海岸は増毛に至る地方であり、それより近くの蝦夷も遠くの蝦夷もこれに加わらなかった。
近くの蝦夷は全く叛抗の力を失っていたし、遠くの蝦夷は叛乱せねばならない程松前の圧迫を感じてはいなかったのである。
しかしいずれも松前との交易関係から離れることが出来ない状態にあった。
叛乱した蝦夷は松前から交易が断たれると、「渇命に及ぶ」と狼狽して、償いを出して降伏し、以遠の蝦夷も宗谷・利尻等の蝦夷は、もし松前との和議が破れ、「商船も不レ参候得ば我々共迷惑仕候事に候故、」うまく行くようわざわぎ忍路辺まで出て来ているし、釧路以遠の蝦夷も大挙白老までやって来て、
「 |
当年 (寛文十年) 御舟不レ被レ下候而迷惑仕候間、来年は御船被レ下度、去年も拙者共に御忠節申上候。
いたづら仕候狄共御気遣に被二思召一候はば、此方ゟ可二申渡一候。
其上にて合点不レ仕候ば私共思案次第に可レ仕候。
とかく御舟不レ被レ下候而は、咎なき狄共迄迷惑仕候。
来年は御船被二仰付一被レ下度候。」
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と訴えている。
石狩川上の酋長ハウカセが、松前勢が商船を派遣しないぞとおどかしたのに対し、
「 |
松前殿は松前殿、我等は石狩の大将に候へば、松前殿に構可レ申様も無レ之候。
又は松前殿も比方へ構申儀も成間敷候。
商船此方へ御越可レ被レ成とも御越被レ成問敷共 別而構無二御座一候。
兼而昔より蝦夷は米酒不レ被レ下、魚鹿斗被レ下、鹿之皮を身に着したすかり申ものに御座候。
商船御越被レ成候儀も御無用」
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と豪語したのは、その場の売言葉、買言葉であったろうが、又その地が産物に恵まれ、位置上松前との交易を余り必要としない地方でもあったからでもあった。
こうした交易経済の蝦夷地滲透があって、始めて松前の威嚇が功を実し、和議とはいえ蝦夷の全面的降伏となり、前述のように、和人のいう通りの条件で、産物の取引を指定の者とのみ行い、かつ和人の蝦夷地交通に協力し、駅停の役務に従うべきことすら約束したのであった。
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こうして和人・アイヌの関係は,以降,《アイヌは和人に屈服する》になる。
併せて,《アイヌは和人に屈服するもの》が,アイヌ・和人双方における<通念・下意識>へと育っていくのである。
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