対象を知ることは,対象をリスペクトするようになることである。
対象を知ることは,対象の奥深さを知るようになることであり,この奥深さに対しリスペクトの気持ちが自ずと起こるわけである。
「リスペクト」と似て非なるものに,「美化」がある。
「美化」は,対象を知らない相で,可能となるものである。
|
知里幸惠『アイヌ神謡集』, 1923.
「序」
その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.‥‥‥
|
|
「美化」は「虚偽化」である。
一方,「アイヌ学」のテクストは,ほとんどがアイヌを美化する書き方になっている。
そこで,アイヌを知ろうとして「アイヌ学」のテクストにあたる者は,「アイヌ美化」というものがあることを知って,「アイヌ学」のテクストを批判的に読む構えをもつことが必要になる。
「アイヌ」は,いろいろな都合から,美化される。
そして,いろいろな「アイヌ美化」があるなかに,「シャモ憎悪」の裏返りの「アイヌ美化」がある。
実際,思いのままにシャモを憎悪できるためには,アイヌは絶対善でなければならない。
そこで,アイヌの美化が行われる。
憎悪が強いほど,美化は度合いを増さねばならない。
「シャモ憎悪」裏返りタイプの「アイヌ美化」をする者には,3種類ある。
一つは,アイヌ終焉後アイヌ系統者で,「アイヌ」を自称し,シャモへの怨念を表明する者である。
アイヌ終焉後の「アイヌ」自称は「アイヌ」僭称であるから,本論考はかれらを "アイヌ" と呼ぶ。
|
戸塚美波子「詩 血となみだの大地」『コタンの痕跡』, 1971, pp.95-107.
pp.95-105
自然は
人間自らの手によって
破壊されてきた
われらアイヌ民族は
何によって破壊されたのだ
この広大なる北海道の大地に
君臨していたアイヌ
自由に生きていたアイヌ
魚を取り 熊 鹿を追い
山菜を採り
海辺に 川辺に
山に 彼らは生きていた
人と人とが 殺し合うこともなく
大自然に添って 自然のままに
生きていたアイヌ
この大地は まさしく
彼ら アイヌの物であった
侵略されるまでは───
ある日 突然
見知らぬ人間が
彼らの 目の前に現われた
人を疑わねアイヌは
彼ら和人を もてなし
道先案内人となった
しかし──
和人は 部落の若い女たちを
かたっばしから連れ去ったうえ
凌辱したのだ──
そして 男たちを
漁場へと連れて行き
休むひまなく
働かせた
若い女たちは
恋人とも 引さ離され
和人の子を身寵ると
腹を蹴られ流産させられた
そして 多くの女たちは
血にまみれて 息絶えた
男たちは
妻 子 恋人とも
速く離れ
重労働で疲れ果てた体を
病いに胃され
故郷に 送り返された
その道すがら
妻を 子を 恋人の名を
呼びつつ
死出の旅へと発った
(侵略者和人は 利口な 民族であった)
しかし
アイヌも まるきしパカではなかった
そうした 和人の仕打ちに
がまんできなかった勇者は
奮然として 打ち向かった
その結果 壮絶な戦いの末に
和人の域を 攻め落したのだ
追い込まれた和人は
最後の武器を使った
和睦の酒宴と称し
彼らアイヌに たらふく酒を
飲ませ 自由を失った 彼らの
五体を 刀で くし刺きにしたのだ
そのあげく
耳をそいで 見せしめとした
(似ているではないか!どこかの大国がアジアで行なっている
戦略行為に──あまりにも よく似ている)
真っ赤な
どろりとした血
かって 侵略されるまで
いや この大地が
アイヌの天地で あったとき
けっして流れたことのなかった
その血は
それ以後 絶えまなく
地中へと 吸い取られていった
いくたび踏みつけられた
いくたび立ち上がった
いくたび 血を流された
いくたび 無念の涙をのんだ
いくたび 路上でのたれ死んだ
いくたび 「アイヌ!」 と罵倒された──
アイヌが 和人から得た物
それは
酒 梅毒 結核 その他の伝染病
劣等感 そして "死" であった
時は流れ
緑なした原野は
畑と化し
大半のアイヌは
住むべき土地も家も 失った
和人の指導者は 言明した
われらが和人の開拓者には
土地 十五町
アイヌには 五町 あげよう
なんとお慈悲深い 和人ではないか
しかしアイヌは
その土地すら 酒にだまし取られたのだ
文字を持たない
文字を知らない アイヌの
悲劇だった──
そのようなアイヌの中には
たちまち 路頭に迷う者も出た
乞食のように 道端にうずくまる彼らに
石を投げつけ パカにする和人の子等
膝を抱え 顔も上げぬ
彼らのうつろな 瞳から
涙がとめどもなく 流れ出た──
和人の学者たちは
この原始人? アイヌを
研究せんがために
われ先にと 部落へ飛んだ
その手には 酒をたずさえて
狼狽する古老たちに
酒を飲ませ
ユーカラや伝承を 聞き出し
ペンを取った
アイヌに対して
人間的な感情も出さず
一個の研究材料として
冷静に見つめ
研究は 功をなした。
アイヌを裸にして 写真をとり
血を採った
ある学者は 部落の者が
制止するのを振り切って
大量の骨を 墓から 掘り起こし
持ち去ったという
今のうちに 研究しなくては‥‥‥‥
今のうちに 聞き出さなくては‥‥‥‥
珍しいか?
それほどに 珍しかったのか
頭のいい和人──
頭のいい学者先生──
アイヌの子供たちは
学校へ行きたがらなかった
われらアイヌの子にとって
学校は 地獄にも等しかった
登校 下校の道すがら
和人の子等に
「アイヌ! なんで学校へ来る!」 と
のしられ 蹴とばされ
髪の毛を 引っ張られた
土人 原始人 毛人
エゾ 外人 いぬ
われら アイヌ民族に与えられた
数々の名称
このロケットの飛ぶ時代に
ある研究者は こう言った
「純粋な アイヌの生きているうちに
アイヌの血が 肉片が欲しい──」と
くれてやろう
それほどに欲しくば
血でも 肉でも 骨でも──
ハイ グラムいくらです
何という 素晴らしい
研究者であろうか
血を 肉を 骨を
永久に 保存して下さると言う
誇りを うばわれ
血も 肉も 骨も
土地も 家も
自由な 天地すら うばわれた アイヌ
|
|
つぎに,体制打倒運動家である。
彼らは,"アイヌ" を見て,つぎのように思う:
《 |
「シャモ憎悪」は, 「体制憎悪」と重ねることができる。
"アイヌ" を,体制打倒運動に組み込むことができる。》
|
こうして彼らは,アイヌ系統者に接近し,体制打倒を説く:
|
本多 勝一「凌辱者シャモにとるべき道はあるか」,『コタンの痕跡』, 1971. pp.79-94.
pp.92,93
結論は、かなりはっきりしてきたようだ。
少数民族は、少なくとも私の接した諸外国の例でみるかぎり、社会主義社会でこそ真に幸福が約束されている。
いわゆる西側諸国、資本主義諸国の少数民族は、ひとつの例外もなく不幸だった。
私の訪ねたことのない国に関してはよく知らないが、真に幸福な、プタの幸福でなくて、民族的誇りをともなった幸福感を抱いている少数民族というもののある資本主義国があったら、ぜひ知りたいと思っている。
だが、これもまだ訪ねたことはないが、社会主義社会でもソ連はどうなのだろうか。
スターリンは一種の少数民族出身といえよう。
チェコやポーランドとの関係でのソ連には、いわゆる修正主義の欠陥が現れているようだが、ソ連内の少数民族はどうなっているのか。
同様に多数の少数民族をかかえる中国はどうか。
いずれも訪ねて実見してみたいところである。
現状は見るまでおあずけとしても、社会主義建設がもし理想的にいっていれば、少数民族が幸福になるはずであることは確かだが、資本主義建設 (?) がいくら理想的にいっても、少数民族が幸福になることは、まずおぼつかないであろう。
アイヌ系日本人についても、これは当てはまるのだろうか。
社会主義社会というようなことをいうと目をむく人があるので、少し遠慮がちに一言うならば、当てはまらないと結論するような材料は今のところ持ちあわせていなぃ。
従ってアイヌが真に幸福になる道は、日本が社会主義国になることであろう。
アイヌ自身のとるべき道は、従って革進陣営に何らかの形でくみすることであろう。
(最近アイヌ系日本人によって創刊された雑誌『北方群」には、明らかにそのような方向を示していることが感じられ、心強く思われた。)
革進政党のとるべき道は、ペトナムの例が示しているように、少数民族がへレン・フォークに対して抱きつづけてきた怨念を、革命勢力に正しくくみこみ、強力なパネへと転化させることであろう。
アイヌについて「良心的」たろうとするシャモのとるべき道は、従ってこのような運動に何らかの方法で、それぞれが可能なやりかたで、加わることであろう。
いかにアイヌ「仲良し」になって「研究発表」してみても、それだけではいつまでも状況は変らぬであろう。
それでは「観光アイヌ」もクマを彫りつづける以外に道はないであろう。
|
|
そして残る一つは,上のことばのつぎの箇所に共感する「アイヌ学者」である:
|
アイヌについて「良心的」たろうとするシャモのとるべき道は、従ってこのような運動に何らかの方法で、それぞれが可能なやりかたで、加わることであろう。
いかにアイヌ「仲良し」になって「研究発表」してみても、それだけではいつまでも状況は変らぬであろう。
|
|
この考え方は,「アンガージュマン」と呼ばれたものである。
本多勝一の上の文章が出たのは 1971年であるが,それは「知識人」の多くがこの「アンガージュマン」に嵌まった時代である。
こうして,「アイヌ学者」は,アイヌを美化し,シャモへの憎悪をかきたてるテクストを書く者になる。
|
河野本道・渡辺茂 編『平取町史』,1974.
「第一編 第二章 第Ⅱ期 (江戸初期)」
pp.148,149
‥‥‥アイヌの漁場を侵し、また交易にはあらゆるごまかしをもって巨利をむさぼり、各所に豪族は館を築いて勢力を張っていた。
しかも人種的偏見や風俗習慣の差異から、個人的な接触でもつねに悔蔑的な感情がつきまとい、やがてそれが嵩じて幾多のトラブルがあったにちがいない。
かかる情勢下に起きたのがコシャマインの乱である。
その直接の原因は康正二年 (1456) の春、和人の鍛治屋がアイヌの青年をマキリで刺し殺したことに端を発し、これが動機となって各地のアイヌが相呼応して立ちあがり、東は鵡川から西は余市までの和人が襲殺され、かろうじて免れたものは松前や上ノ国に避難する事態にまで発展した。
すなわち、永い間血族的な平和な集団社会を形成し、死刑とか殺人とかの風習をもたなかった彼等にとって、この和人の行為はまさに許しがたい暴逆と考えたにちがいなく、したがってその暴動はひとり各地における襲殺だけにとどまらず、越えて翌長禄元年 (1457) になると、すでに民族的な復讐心をかりたてて団結させ、東部の酋長コシャマインを陣頭に‥‥‥
pp.152
すなわち他藩における藩体制の経済的基盤が農業生産にあり、農民を軸にした年貢の収奪にあるのに対し、非農業地帯である松前藩においては、そのような形態をとることができず松前地帯 (和人地) に居住する零細漁民と蝦夷地に住むアイヌの収奪を軸とした。
pp.159
‥‥‥漁場を奪われ新しい生産方法を強いられたアイヌは、もはや自主性を失いその多くは労働力として動員され、またそれを快よしとせざる者もあらゆる欺満と悔蔑による不等価交換によって搾取され、しだいに商業資本によるアイヌ社会の分解作用を起していった。
寛文九年 (1669) に勃発したシャクシャインの乱の背因も実にここにあった。
pp.162
この起請文で明らかなごとく、アイヌ民族は完全に松前藩の被征服民族に転落させられその後の運命を大きく狂わせ、もはや旧来のようにアイヌが自発的に収獲した産物を交易品として提供するものではなく、領主や請負人の要望する産物を生産して供出するか、あるいは請負人の経営する漁場に労働者として雇われ、その酷使に甘んじなければならなくなり、また交易における交換比率も、米価の高値やあるいはアイヌの出産物の増加などにより,一方的に和人によって決定されるというように、不等価交換の収奪がいよいよ強化きれたのである。
pp.166-168
しかもこの交換等価は幕吏の調査に対する請負人からの答申であるから、実際にはどんなように扱われたか多分の疑いがもたれる。
なぜならばこれらの収支勘定は、運上屋で請負人がすべて一方的に帳簿につけておいて、前貸しの形になっており、漁期が終って切揚げのときに差引精算されるのであったから、時間も経過し、まして丈字を知らぬアイヌの前では,いくらでも帳簿をごまかして詐取することなどは朝めし前のことであったにちがいなかった。
このように詐欺が嵩じてくると掠奪に等しい行為もあったらしく、『津軽紀聞』によれば「渡海の船,かへ物引替の相対すんで、或は彼から干鮭何ほど、煎海鼠、串貝の類何ほど、これに対し此方からは酒椀に何盃、たばこが何程、針何本ときめて、さて彼方の代品物を数えて受取るとき、此方の船の危き所え幅せまい板を渡しおき、アイヌはあやふしと思っても、ぜひなきことと思い、いやともいわずかの板の上にのせて代品物の数をかぞえ、覚えているところを、後ろから折を見て抱きついて驚かすと、はっと叫んで身をふるはせ、非常に立腹して交易もやめようとする態度になったとき、椀に酒をついで差出すか、または煙草などを少し与えてあやまると、たちまち気嫌をなおし心よく交易の品を数えるが、前に数えた品物のことはわすれ、新たに数えはじめるので、以前数えた品物はタダになってしまう。」というようなこともやったと書かれている。
よくアイヌ勘定といって、勘定の終始に「初り」と「終り」をつけて十を十二に数えあげることなども、常時行われていたらしく、奸智の限りをつくした 。
‥‥‥これら和人の船頭などは人道を無視してアイヌの女性まで掠取した。
すなわち、神揺オイナソー (オイナカムイ夫妻の自演) には次のように歌われている。
|
シシリムカ (日高国の沙流川の神名) の岡に、平和な生活を営んでいる夫婦の間には、愛すべき子供きえあった。
ある日、夫が山狩に行った後に、突然、‥‥‥弁財船の船頭の配下の連中が乱入し、美貌のアイヌの妻女を襲って、無理強いに殿様の国 (和人の国) へ連れて行こうとしたのである。
妻は力限りの抵抗したが、ついに子供は殺され、妻は拉しきられ船の帆柱にしばりつけて出帆してしまった。
‥‥‥
|
このような和人の非道な所業は往時随所にあったことを物語り、その報復を神かける心理の現われでもあった。
その他、酷薄、無惨な手段をもちい生産物はもちろん労働力まで搾取して、コタンの人びとの生活を極度の貧窮化に陥れた。
|
|
この種のテクストには,書いている本人も気がつかないトリックがいろいろある。
実際,トリックがわかるためには,論理学の素養が一定程度必要である。
「学者」の「アンガージュマン」は,はしか現象のようなものであるが,学術を裏切ったことは間違いない。
「アイヌ学者」は「脛に傷持つ」者として,痕を引き摺ることになる。
|