Up 『アイヌ学 : 基礎知識・用語』: 要旨 作成: 2017-02-02
更新: 2017-02-02


    本論考のアイヌ学の位置づけは,現代文明批判学である。
    方法論 (「思想」) の無い「アイヌ学」とは,無縁である。
    調べものに終始し理論構築のできない「アイヌ学」とは,無縁である。

    アイヌ学は,ノイズの除去から開始せねばならない。
    現前の「アイヌ学」は,ノイズに埋もれて本体が見えない(てい)だからである。

    ノイズの除去は,ノイズがわかってできることである。
    この作業自体が,一つの学になる。
    実際,ノイズの除去は,「一つの系のていねいな解体」というものになる。


    ノイズは,アイヌ終焉後の諸々の "アイヌ" 現象である。

    アイヌが終焉した後も,ひとは「アイヌ」の呼称を引き摺ることになる。
    そしてアイヌ系統者のうちに,「アイヌ」の呼称を引き受ける者,即ち「アイヌ」を自任する者,がいる。
    アイヌは過去のものであるから,彼らが「アイヌ」を自称するとき,それは「アイヌ」の僭称である。
    本論考では,アイヌと区別するために,彼らの呼称として "アイヌ" を用いる。

    "アイヌ" をめぐって,一つの歴史がつくられていく。
    この歴史の中に,「"アイヌ" 保護」の政治運動がある。
    この運動は,「"アイヌ" 保護」合理化のために,"アイヌ" およびアイヌに関する事実捏造・歴史改竄を行う。
    これが,アイヌ学に入る上で除去が必要となるところのノイズである。

    「"アイヌ" 保護」の政治運動が行う事実捏造・歴史改竄を「事実捏造・歴史改竄」として示すことは,学術の営みになる。
    実際,学術のスタンスに拠らねば,これは成し得ない。
    こうして,「"アイヌ" 学」が立つことになる。


    (1) "アイヌ" 学
    アイヌ終焉後のアイヌ系統者は,「この先」に対する<構え>を,ひとそれぞれに現す。
    その<構え>の多様性を,ここではつぎのように構造化してみる:
       「アイヌ」のレッテル(L) 
      不要 必要
      「アイヌ系統者」の
       アイデンティティー (I)
       不要  (不要, 不要) (不要, 必要)
       必要  (必要, 不要) (必要, 必要)

    ここで,(不要, 必要) と (必要, 不要) は不安定な相であり,(不要, 不要) か (必要, 必要) の安定相に遷移していく。
    (不要, 不要) は,「同化」の相である。
    (必要, 必要)は,「観光アイヌ」の安定相である。しかし「アイヌ観光」が衰退すると,保護をもらって成立する相である。──この意味で,「保護」の相である。

    こうして,アイヌ終焉後のアイヌ系統者は,同化派と保護派に分かれていく。
    この分裂はアイヌ終焉直後から現れ,そして,(不要, 必要),(必要, 不要) の不安定相の消滅という形で,分裂をはっきりさせていく。

      小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998.
    pp.401
    静内町 森竹竹市 (「ウタリーへの一考察」)
    〈『北海道社会事業』第28号1934年8月〉
    ‥‥‥
     近頃若いウタリーから──保護法を廃せ──と云ふ叫ぴを聞かされますが私も其れには双手を揚げて賛成する一人であります──保護民族──此の一語こそ若いウタリーの気を滅入らせ、品位を傷つけ清純な童心を、へし曲げるものである事を思ふ時 一日も早く此の境遇から脱したいと思ひます。 けれど之は時代に目覚めた一部若いウタリーだけの希望であって 実際多くのウタリーの日常生活を考へた時 保護法を即時撤廃せよとは残念乍ら言ひ得ないのであります。
     故に此の際我々の要求としては保護法の改廃を行ひ、存続すべき法も恒久性のものとせず其の廃止時季を今後十年乃至十五年後として明示し、断然ウタリーの一大自覚を促がされん事であります。 不時の災厄に備ふるに一銭の貯蓄なく共治療に事欠かず、貧困の場合には農具や種子を無料で貰へる様な保護施設も最初の中こそ真に恐縮な事である、申し訳ない事であると思ふけれど 慣れるに従って貰ふ事が当然の様に考へて来るものです。
     要するに物質的保護はウタリーの自力更生精神を阻害し勤倹貯蓄心を欠去し、遊惰性に導くものであると断言しても過言では無いのであります。 「窮すれば通ず」で、人間一度斯うしなければ絶対駄目だと思った時必ず其処に自分の活路を見出すべきものであり、依頼心は其の人を退嬰的にし、卑屈ならしむるものであります。 思ふて此処に至れば保護法存否の是非を深く考へさせられます。 ‥‥‥

    pp.403,404
    日高 清川三蔵
    〈『北海タイムス』1937年4月22日〉
     旧土人保護法が若干改正された、長官以下当路者の大童なる努力は実現された。
    私はアイヌ族の一人であるが、今日のアイヌが往時のアイヌに比して向上したと云ふことは断じて認められない。 若し現下のアイヌが往時のアイヌに比して向上したと見るものあらば、大なる認識の誤謬である。
    私は土人保護法なるものは寧ろ撤回すべきものだと思ふ。
    現在の為政者には往時の岩村長官の気概もなければ松本判官の見識もなく、徒らにアイヌ座談会とかウタリー協議会とか、アイヌに物を聞く会とかを催し、其の出席者も多くはアイヌ実生活に暗く、又はアイヌ同族の先覚者の知く化装してゐる同族を売るブローカーの徒であって、口には民族の進展とか正義の高唱をなしてゐながら、善良なる徒に伍することの出来ない者が多いのである。
    私は同族の為になぜ保護法の根本的存在を認めぬかと云ふと、一般救護法を有する現社会に特に土人保護法を置くは、正しくアイヌ民族の特殊性存在を意味するものであって大なる時代の錯誤である。
    かゝる誤認の下にあるアイヌは 長官の生活の向上説を裏切って 日高の一先覚アイヌと称するものが日高、胆振の男女アイヌを引率して高知市に開催せられてゐる博覧会にアイヌ踊をなすべく既に出発してゐる。 斯かる奥行的ブローカーが同族中にあるのみならず其踊の興行に加はる同族の愚昧を拒否すべき何人の存在もないのである。 斯る民族的屈辱の行為は、貴衆両院を法律案の通過して旬日を待たずして実行されてゐる。 それ等も正にアイヌ民族特別の存在を国家が確認してる点に其の責をたゞすべきである。
    又一文学士が出たと云って大騒ぎするが、文学士とアイヌとの間には何物の交渉もない、一文学士も日本人知里某に過ぎないのだ。
    私はアイヌの一人として我同胞も国民の一員であって義務にも権利にも均等に浴して居るものであるから、一般的救護で充分であると信ずる。
    又私は今回の改正法は一旦善意に忘れられつゝある同胞の恥辱的存在を強めた外に、何物の収獲なきのみならず、(やが)ては更に一層の恥辱的行為がアイヌ部落に行はれて視察団やら行旅者の為めに西欧のジプシーの再現を見る事と思ふ。
    同族の者よ頼る勿れ、速にアイヌを脱して独立不()の気魄の下に土人保護法を死物に葬って好個の日本人にならうではないか


    「同化」は社会に埋没する相であるから,同化派は "アイヌ" シーンから消えていく。
    "アイヌ" シーンに残るのは,保護派である。

    この保護派が,"アイヌ" シーンを好きにしていく。
    実際はごく少数 (実働人数で 10人単位規模) なのだが,「アイヌの代表」を(かた)る。
    そして,「保護」内容の強化を求める政治運動をする。
    また,彼らの「保護」要求にはパラサイトが付くことになり,「アイヌ利権」が形成される。


    保護派の政治運動の手法に,デマゴギーがある。
    デマゴギーが保護派の手法になったのには,1970年前後頃の革命思想ブームがある。

    革命方法論は,つぎの3部で成る:
    1. 体制に対する憤りを人民に植え付け,人民の決起を誘導する
    2. 人民の暴動を,体制打倒へと導く
    3. 革命政権を樹立する

    「革命」は,体制打倒が絶対善であり,体制打倒のためにはどんな手法も許される。
    デマゴギーは,このような手法の重要な一つである。
    デマゴギーは, 「体制に対する憤りを人民に植え付け,人民の決起を誘導する」に用いられる。
    即ち,人民が憤るような物語をつくり,これを人民に聴かせる。
    これが,「事実捏造・歴史改竄」の意味である。

    保護派 "アイヌ" は,彼らに接近してくる社会主義者に感化されつつ,この事実捏造・歴史改竄を行う。
戸塚美波子「詩 血となみだの大地」,  
in『コタンの痕跡』, 1971, pp.95-107.
 
‥‥‥
ある日 突然
見知らぬ人間が
彼らの 目の前に現われた
人を疑わねアイヌは
彼ら和人を もてなし
道先案内人となった

しかし──
和人は 部落の若い女たちを
かたっばしから連れ去ったうえ
凌辱したのだ──

そして 男たちを
漁場へと連れて行き
休むひまなく
働かせた

若い女たちは
恋人とも 引さ離され
和人の子を身寵ると
腹を蹴られ流産させられた
そして 多くの女たちは
血にまみれて 息絶えた

男たちは
妻 子 恋人とも
速く離れ
重労働で疲れ果てた体を
病いに胃され
故郷に 送り返された
その道すがら
妻を 子を 恋人の名を
呼びつつ
死出の旅へと発った
‥‥‥

      ここでは,「全称命題に換える」というトリックが使われている:
        つぎの命題がある:
          「個体aが,個体bに対し,行為pをする」
        いま,a, bがそれぞれがカテゴリーA, Bの員であるとする。
        このとき,つぎの命題をつくる:
          「Aが,Bに対し,pをする」

    本当はどうなのかを知らない者,ことばのトリックというものを知らない者は,これに騙される。
    したがって,「若者」がいちばん騙される者になる。 ──実際,「若者」の意味は「物知らず」である。
    こうして「怒れる若者」を得る。

      貝沢正「近世アイヌ史の断面」, in『コタンの痕跡』,1971. pp.113-126
    pp.125,126
     私は自らの意見も言わず、例を述べるに過ぎないが共感を得たものを列記した。
    もう一つ、十勝の女子高校生の稿をお借りして新しいアイヌの考えを知ってもらいたい。

    歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる
    「差別されたから頭に来た、あいつらをやっつけたい」
    それはそれだが、そんな小さな問題に目を向け右往左在しているだけでは駄目だ。
    私たちがアイヌ問題を追って行く時突き当る壁は同化ということだ。
    明治以来の同化政策の波は、もはや止めることはできないだろう。
    私は、何とか、アイヌの団結でシャモを征服したいものだと思った。
    アイヌになる。
    北海道をアイヌのものにできないものか。
    だが、アイヌの手に戻ったとしても差別や偏見は残るだろう。
    やはり、根本をたたき直さねばならないのです。
    アイヌは無くなった方がよいという考え方、シャモになろうとする気持が、少しぐらいパカでもいいからシャモと結婚するべきだと考えている人が多いと思う。
    私の身近でも、そういう人が随分いる。
    私はこのような考え方には納得できない。
    シャモに完全に屈服している一番みにくいアイヌの姿だと思う。
    これは不当な差別を受けても "仕方がないのだ " と弱い考え方しかできない人たちなんだと思う。
    アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言うなら、それは悪どい、こすいアイヌだ。
    なぜ差別を打倒しないのか
    なぜ、アイヌ系日本人になろうとするのか。
    なぜアイヌを堂々と主張し、それに恥ることのない強い人間になれないのか。
    どうしてアイヌのすばらしさを主張しようとしないのか?
    私は完全なアイヌになりたい。
     個人が自己を確立し、アイヌとして真の怒りを持った時、同化の良し悪しも片づけることが出来ると思う。
    強く生きて、差別をはね返す強い人間になることだ。』


    保護派 "アイヌ" とその周りの社会主義者による事実捏造・歴史改竄は,つぎが一つのゴールになる:
    1. これが,アイヌ学者の常識になる
    2. これが,公教育の内容になる

    《アイヌ学者の常識になる》の方は,ほとんど成功した。
    成功したのは,1970年前後期革命思想ブームが,知識人が「アンガージュマン」に嵌まり,理を捨て革命的昂揚を択るものだったからである。
    そのとき,事実捏造・歴史改竄に手を染めた「アイヌ学者」は,以降引っ込みがつかない格好になる。 ──特に,「アイヌ民族」を唱えてしまった「アイヌ学者」。

    《公教育の内容になる》の方は,「うまくいっていない」というふうである。
    うまくいかないのは,役所は,法準拠で仕事をするところとして,理にうるさいからである。
    「アイヌ学者」は簡単にムードに左右され,理をふっとばすが,事務方は違うというわけである。


    (2) アイヌ学──土人学へ
    アイヌ学の位置づけは,現代文明批判学である。

    生き物の理性を,"「土」対「コンクリート」" で見る。
    (哲学だと "「記号」対「概念」" と言うところである。)
    そして人を,"「土人」対「コンクリート人」" で見る。

    いま,人は商品経済体制で生かされる存在である。
    この<生きる>は,<分業>である。
    これは,独りにされると即死ぬという形である。
    この先は,<AI に生かされる>である。
    商品経済体制の知を最もよく持てる者は,AI だからである。
    この過程に生きる者が,「コンクリート人」である。

    「コンクリート人」は,ある時,「自分が失った理性」という思いにとらわれる。
    そして「土人」に思慕の念を抱く。
    この思慕の念は,<リスペクト>である。

    この「土人」が,「アイヌ」と重ね合わせるものである。
    「アイヌ学を現代文明批判学と位置づける」の意味は,内容でいうと「アイヌ学を土人学と位置づける」である。