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「明和七庚寅 [1770] 年十二月六日嘱崎康嘗記」
一 蠣崎治郎左衛門方ヨリ申達シ候者、
今般支配所「トカチ」ノ夷ドモ「サル」ノ蝦夷共ト出入有レ之、
彼近邊エ夷共引集メ、「サル」へ押寄、打合申沙汰ニ付、何レモ渡世ノ働モ相止、其打合計リニ掛居申候。
依レ之御用ノ膃肭臍モ揚不レ申候。
旁以テ大切ニ奉レ存候。
此度右夷共騒動為二取鎮一家来共差遣申度候間、何卒所々ニテ御人足竝扶持米共ニ被二下置一候様、
右ノ米ハ追テ員数相知レ次第上仕度旨願申達、夷地事故被二仰付一候筈。
一 小林頼母申達候ハ、
「トカチ」ノ夷共打合ニ付、膃肭臍奉行中ヨリ申来リ候ニ付、此度右打合取鎮申候様ニ家来遣申候由。
然レドモ家来計ニテ難二取鎮一可レ有レ之哉。
何卒御通詞高橋札右衛門被二仰付一被レ下度旨申達ニ付、左候ハゞ、表向キ町奉行中エ願可レ達旨申渡ス。
右夷地出入ニ付、治郎左衛門頼母方ヨリ、家来計リニテ、無二覺束一候ニ付、高橋札右衛門被二仰付一旨願出候へドモ、札右衛門病気故、御通詞ノ内佐右衛門可二申付一旨、町奉行中申達ス。
尤モ通詞一人ニテハ遠方故如何ニ付、添人可二申付一旨、乍レ去町家ヨリ人足ト有レ之候。
其時分柄何モ難義候間、地頭兩人ヨリ出合雇人ニテ可レ然旨申渡ス。
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川上勇治 (1976)
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お婆さんの見た外の光景は、非常に恐しいものであった。白い雪明りと、遅く出た半月の明りの中で、今まで見たこともない大勢の異様な風体の男や女、老人、子供までが加わり大きな円陣を作っていた。‥‥‥お婆さんは彼らの動作や風体を見て、すぐトパット゚ミ (夜襲) だと判断した。
トパット゚ミとは沙流以外のたとえば十勝とか石狩とかのひとつの大きな部族が、一族を引連れて攻め寄せ、ねらいをつけたコタンに焼討ちをかけ皆殺しにして、そのコタンを占領し住みついたり、または宝物をうばい取り、ピリカメノコ (美人) がいると連去ったり、いわばこれは、アイヌ間の戦争であった。だからアイヌたちはこの戦争にそなえて、各地にチャシ (とりで) を築いて常時見張りを続けたとのことである。女や子供を連れているということは、多分うばい取った宝物やその他の物を運搬するのに、一人でも多くを必要としたからだと思われる。
‥‥‥
オッテナはみんなの意見や、長老の話を聞き、いちいちうなずいていたが、やがて決断したのかやおら立ち上り「もうぽつぽつ夜明けだ。お婆さんの話によると彼らは大体三十人位だ。年寄りや女子供がまじっているので、あまり遠くまで逃げていない。これから追討ちをかけひとり残らず討ちとらなければ、これから先何度もこのように攻めて来られたら大変だ。‥‥‥
イワンチシリのチャシまで急いで先まわりして、奴らが川伝いに逃げるのを待伏せしてひとり残らず矢で射殺してしまえ」と命令した。
総勢十人ほどの足の早い屈強な男たちが、弓矢刀などを持ち、勇んでポロチセから飛んで出て行った。
‥‥‥
このチャシでトパット゚ミ隊の三分の一の男たちが矢で射殺されたが、その他の連中は、なおも沙流川の奥へ奥へと逃げて行く。
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ポロサルのアイヌたちは味方の矢傷の手当をしたり、負傷者をコタンへ連れて帰るため、戦いを一時中止し、逃げるトパット゚ミ隊を追わないことにした。
そのうちにチャシの近くに、三人の屈強なアイヌがあらわれ、‥‥‥ポロサルのアイヌたちは負傷者を連れて全員がコタンへ帰ることになり、三人だけがトパット゚ミ隊の後を追うことになった。
‥‥‥
イワナイという沢の近くに来た時、三人はトパット゚ミ隊の足跡のみだれを発見した。おかしいと思い注意しながらなおも進んで行くと、ある小沢のくぼみに、新しい松の枝が積み重ねてあった。
不思議に思い、この松葉を取りのぞいてみるとひとりの女の死体が出て来た。調べてみると、この女は妊娠しておりもう臨月らしい様子であった。女はトパット゚ミの仲間である。‥‥‥
三人のアイヌたちはここでカムイノミをした。この女の死体の乳房を切り取りそれぞれ一口ずつ呑みこんで、そのあと、もし気分が悪くなりもどすようなことがあれば、その者は武連がなく、無事にコタンに帰ることが出来ないのである。また、もどさなかった者は心配ないことなので、呑みこむ前に無事を神に祈るのである。これは一種の占いのようなものだと思うが、アイヌの伝説のなかにはよくこのような話が出てくる。
三人のアイヌたちもこれを行なったのである。三人は女の乳房の肉を切り取り、それぞれひとくちずつ呑みこんだ。するとまもなく三人のうちの一人が気分が悪くなり、ニ人の目の前で真赤な生肉をはき出した。このはき出した人はペナコリから行ったアイヌだということである。
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ウサップの森林を過ぎると前方に大勢のトパット゚ミたちが先を急いでいるのを発見した。イワンチシリで討死した残りのトパット゚ミたちである。女や子供を含めて約二十人である。‥‥‥
この場所で十人あまりのトパット゚ミたちが矢で射殺されたということである。
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生き残ったトパット゚ミ隊は、なおもチロロ(千栄)を通り過ぎ沙流川の本流の奥へ奥へと逃げて行った。
三人のアイヌたちは再び追いかけ始めた。
古老たちの話によると、このトパット゚ミに来た連中は一人残らず殺してしまわなければならないと言う。
なぜなら、トパット゚ミ隊の子孫が一人でも生き残るとあとで必ず仇討に攻め寄せて来るので、後難を恐れるアイヌたちはたとえ子供や女でもすべて殺してしまったということである。
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とど松、えぞ松、だけ樺、真樺の原始林の山の中腹あたりの斜面を横切り、三人のアイヌたちは固雪の上を風のように走っていた。まもなくトパット゚ミ隊に追いついた三人は、残ったトパット゚ミたちを情け容赦もなく斬りまくった。日勝峠近く日暮れ時のことである。
トパット゚ミの者もなかなかうでのたつのがいて勇敢に戦ったが、とうてい三人のアイヌの敵ではなかった。あとで恨みを残さぬため、女も子供も老人も残っているものは全員殺さなければならない。男たちの戦う怒声と女子供の泣きさけぶ悲鳴があたりの山々にこだまし、白い雪の上一面に真赤な血をそめて戦いは終った。
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アイヌの伝説によれば、戦いのいかなる場面においても必ず仲間の一人か二人を逃して自分たちの味方に連絡するということである。この戦いの場合、トパット゚ミの側も二人が落ちのび、一心に日勝峠のはい松の中をくぐり抜けて十勝の方へ逃げのびたのである。三人のアイヌたちは戦い終ってほっと一息ついたとき、二人の足あとが峠の方へ続いているのにふと気がついた。
今日はチロロあたりまで下って帰路につこうかと考えていたが、たとえ一人でも逃げのびれば、何日か後に援軍を引連れて仇討に攻め寄せて来る恐れがあるので、また引続き翌朝から追跡することにした。
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固雪の上を歩くことにかけてはすばらしい速度を誇る三人は、疾風のように十勝原野をめざして走っていた。太陽が空の真中を通り幾分西にかたむいた頃、雪原の彼方にポツン、ポツンと、五、六軒のアイヌ・チセがたち並んでいるのを発見した。三人のアイヌたちは用心してコタンの近くの萱原でかくれて日の暮れるのを待ち、様子を見ることにした。
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三人のアイヌのうちの一人が、チセの内部を探るため屋根の上まで身軽に飛び上り、リクンスイ (煙出し窓) から中をのぞきこんだ。いるわ、いるわ、大勢のアイヌが協議のまっ最中である。
その時リタンスイのあたりに異様な気配を感じたチセの中の一人のアイヌが、すばやく弓に矢をつがえ、リクンスイから顔をのぞかせたアイヌに矢を射た。矢は正確にアイヌの目に命中し、異様なうめき声を上げて屋根から地上へ転落した。下でこれを見ていた二人は怒りに燃え、一人はロルンプヤル (東測の窓) から、一人はセム (家の入口の空間) のある入口から万を振りかざしてチセの中へ乱入した。そうして手当り次第斬って斬って斬りまくった。せまいチセの中で二人は自由にあばれることが出来たが、チセの中にいた人たちは手出しも何も出来ないうちに皆殺しにされてしまった。
戦いすんで目をやられたアイヌを介抱しようとしたが、時すでに遅く矢の毒が全身にまわり手のほどこしょうもなく息を引きとった。先に書いたように、女の死体の乳房を呑んではき出した時すでにこのアイヌの運命は決まっていたのである。
二人はまったく人影のなくなったコタンのチセ全部に火をつけて焼き払い、帰路につくことになった。
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引用文献
- 「福山秘府」古今訴状部(巻之三十六), 「明和七庚寅 [1770] 年十二月六日 蠣崎廣當記」
- 『新門別町史 上巻』, 門別町, 1995. p.215
川上勇治 (1976) :「コタンの妖万」
川上勇治『サマウンクル物語』, すずさわ書店, 1976, pp.9-28
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