Up ウカル 作成: 2018-11-16
更新: 2019-02-08


       村上島之允 (1800), p.45
    ウカリと云事を、夷、暇ある時稽古す。
    三尺餘の槌を人毎に所持し、家の内に掛置けり。
    皆々集り、脊に皮薦の類ひを負、打合て手練する也。
    比地いまた文字なし。 喧嘩口論の後、負たる方にて誤證文をかく替りに所持する宝物を遣して中なをりするをツクノヒと云。
    又、棍賊女犯の罪も亦同し。 其事の軽重によりて、宝数種をとりて許容す。
    扨、宝を出さすして、ウカリせんと云時、双方親族あつまり、先罪を犯したる者を槌
    にて三度打、次に相手の者も打、たかひに打れて安全なれ、ツクノヒに及す。
    其強弱によりて只一打にて轉死する者あり。
    又、半死の病者となるもあり。
    浮身練達の者幾度打るゝとも安然たり。
    此故に平生稽古怠慢なく勤る也。
    ウカリ稽古圖

       村上島之允 (1809), 「八 (ウカルの部)」
    ウカルの圖
    シュトの圖
    ラゝカ(滑なる) シュトの圖

    ケフヲイ(毛のまばらにある) シュトの圖
    アカム(車の) シュトの圖
    シアユウシ(いぼの刺す) シュトの圖


      串原正峯 (1793), pp.499,500
    宗谷にて當六月三日の夕方、同所の夷どもウカルといふ事をはしめたり。
    其起りを聞に、同所へ去亥の年荷物を積来りし重寶丸といふ辨才船、修復普請に取かゝり、五月下旬普請始り、六月三日臺おろしをなす。
    臺おろしといふは船を陸より海へおろす事なり。
    大船の事ゆへ、少人数にてはおろす事成がたく、是に依て蝦夷人を手傳に頼度段、重寶丸船頭會所へ願たる故聞届、其日は手透の折からにて、蝦夷人大勢貸し遣しけるが、臺おろしも無滞濟、其祝義として、手傳に出たる夷どもへ船より酒を振舞たりしか、其酒機けんにまかせ、夷どもの内より申出しけるは、
    此間中、下地(しもち)の夷共此所へ海鼠引漁に来りし者の内、何か咄の内に、
      曹(宗)(ルビ)谷のアイヌはウカルなどをする事はなるまじ。
      ウカル初りたらば草の中へでも隠るゝならん
    と云たるよし。
    今日此所へ若きものとも集りたる事なれば、いざやウカルを初て、しも地の者ともへ見せべき などいふて、夫よりウカルを初しなり。
    尤ウカルといふ事は、喧嘩口論などして中直りの折から、非分成方より理有方へアシンベを出す、アシンべといふ事は非分成ものの方より罪のつくなゐとして寶を出す事なり。
    又は此ウカルをなして互に打合、其後はまた/\元のことく睦しく成事蝦夷のならわし(なり)
    然るを、此度のウカルは、前にいふごとく、((ふ))としたる事より起りしなり。
     ‥‥‥
    ウカルといふは、長さ三尺程なる圖のごとくのシツ゚ 和名ツチなり といふ物、樫の木にて作り、先の太さ丸差渡し三寸位、太き所の長(さ)八寸程にて、筋は珠盤(そろばん)の玉の角のことくになし、重みに銕鉛をいれ、横の二筋は一段ひくく、鐵の輪をいれたるなり。
    是を壹人持て八相に構へ、壹人後(ろ)向に立、肌をぬぎ、背を出して待。
    其時打者槌を振あげ、懸聲をして力まかせに強く打。
    尤肩の所を打なり。
    打たる跡紫色になり、槌の角にて皮破れ、肉ただれ、血出るなり。
    打事二度、夫より打れたるもの槌を請取、打たる者を打なり。
    中には息はづみ弱るもあり。
    外の夷ともメノコ等大勢側に立並び聲をあけて打るゝものに勢ひを付る。
    是をリミセと云。
    又顔へ水をも懸るなり。
    此剛強成打合なれども、打たる跡を見るに、黒くなり、打破りたる所は肉顯れ、痛々敷様子なれども、少しもよわりたる躰見へず、
    其翌日會所にて飯米を搗(か)する時、右のシルランケアイノ米(つき)に出たれども、毎度のことく達者に米も舂仕廻たり。
    是といふも幼少より平生の遊ひにもウカルの眞似に打合などし、成長なしても右のならしに常々打合をするなり。 尤平生は素はだにてはなく、アツシの上に獣の皮にて草(わら)などを包み、是を背に負て打合ふ。 ケ様に平日ならし置(く)ゆへ、格別に體疲れぬ事と見へたり。


      菅江真澄 (1791), p.543
    ‥‥ ホロナイのアヰノか栖家(ヤカタ)に入て,しはしとて休らふ。
    (アヰノの詞に,良屋をさしてヤカタといひ,苫屋,丸屋をさしてチセヰというとなん。)
     ‥‥
    この館のくまにはセトフとて三尺よさかの槌に鐵條をさし入れて,いと重げなるを掛たり。‥‥
    又おなしさませし短き槌子(つち)に,木絲巾(アツシ)の布をひた巻にまきたるが榻床(セッカ)の下に投棄たるは,わかきアヰノらがつねのいとまあれは,槌搥(セトフ)のわざをならはせるの具となん。

       最上徳内 (1808), p.529
    ‥‥ 此(つぐなひ)といふこと、他に刑なきによりて起たる事なり。
    小盗の類は長が家に縛することあり。
    一人と一人との事は仲だちあれば贖を出し、やまざれは打シユトといふものにてあやまちに服したる方の腰の所を(たたき)、血を見てやむ。
    これをウカルといふ。
    又シャラカムヰといふは互に怨あるとき約を定て棒をとりて撃あふなり。
    うちあふといふも初よりすきまをかぞへ、みだりにうつことにてはなく、昔より定たるしかたあり。
    棒をチヨシケニーといふ。
    (ひぢ)にこて(籠手)の様なるものを着て棒をうく。
    その名をタフシユルンべといふ。
    此シャラカムヰ、雙方見方に二百人も三百人も集り助くることあり。
    今より廿年前いたく禁じたり。
    その前まではやゝもすれば此事ありて、所々の長の勢あるものが合併の志ありて起るものは驥尾につく者多く、一人を助るのみならず聚落と聚落との得失に拘はる事に付、雙方其長が指()に従て争(に)赴く。
    卅年はかり前、テシオ川の上流より ゑそ(蝦夷)か屍 なか(流)れて、海口 これかために せ(塞)かれしこと有とそ。テシオは廣さ三百歩もあるへし。



    引用文献
    • 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
    • 串原正峯 (1793) :『夷諺俗話』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.485-520.
    • 最上徳内 (1808) :『渡島筆記』
        高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.521-543
    • 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
      • 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
    • 村上島之允 (1809) :『蝦夷生計図説』