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喜多章明「旧土人保護事業に就て」, 北海道社会事業, 第50号, 1936.
『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.59-78.
p.74
‥‥‥虐待され乍らも蝦夷は、請負者──運上屋──を親方と仰ぎ、生産したる物貨を之に売捌くは勿論、概ね運上屋に抱へられ漁撈に従事して物貨の供給を受け、以て生活を維持して来た。
今日の経済機構を以てすれば、工場資本家対労働者の関係にあった。
されば之を急激に廃止される場合は、工場の閉鎖を喰った労働者のやうなもので、土人等の狼狽は一通でなかった──是は維新の改革が同族に及ぼしたる影響の重大なる一つであった。
茲に於て開拓使は、之等失業土人の応急施設として、当分の内必要なる場所に限り漁商を指定して漁場を営ましめ或は開拓使自ら漁業を経営し、或は土人の生産品の販売法を設けて、過度期の急を救ふた。
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喜多章明「旭明社五十年史 : えぞ民族社団」(1967)
『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.106-173.
pp.160-163
十勝の国にはいつ頃からアイヌ族が棲みついたか。‥‥‥
文献の上で見えはじめたのは、寛文二年松前藩主十世矩広が、十勝一国を其の家老嬬崎蔵人に知行所として給与したときの文書によれば、十勝一帯並に其の沿岸に、二百八十戸の蝦夷(アイヌ)族が居住していたと記きれている。
知行主 (領主) 蠣崎は、自ら知行所 (十勝一国) を支配しないで、漁商杉浦嘉七に年額一万二千円の運上金を徴して漁獲一切の支配を請負わしめ、自らは福山の城下に在居して、藩政を補佐すると言った機構であった。
是を世に場所請負人と称した。
請負人杉浦は、広尾に運上屋を設け、蝦夷の漁獲する鳥獣魚介を集荷して内地 (本洲) に移送販売し、反面、内地より米味噌、酒、煙草等蝦夷の日常の生活物資を入荷して供給した。
世に是を運上屋と呼ばれた。
然し運上屋は単にこうした経済機構ばかりでなく、当時、行政権の全然確立していない蝦夷地にあっては、運上屋が司法、行政、治安警察の主権者でもあったのである。
十勝国の蝦夷民族は、大平洋沿岸から十勝川、音更川、札内川等、国内の河川の沿岸に、草小屋を引結んで、ここかしこと散居し、河海に漁り、山に鳥獣を追い捕獲した山の幸、海の幸を丸木舟に積んで大津、又はビロロ (広尾) の運上屋に運び、米噌、酒、衣料品等と交換して生活して来た。
それは十勝の蝦夷のみならず蝦夷地全土のアイヌも同様であって、全土に幾つかに区切られた場所の運上屋を中核として、同族の生活は保たれた。
藩にとっても、其の財政の基盤は、アイヌ人の労働力の上に築かれたものであった。
幕末維新の変革によって、廃藩置県の号令が下り、之に伴って場所請負制度は廃止され、蝦夷人が多年親しんで来た運上屋も姿を消すことになり、身は一般民として浦河郡役所の支配下に属することになった。
アイヌ族にとっては死活を制する一大事に遭遇したのである。
明日からは米噌を供給して呉れるものもなければ、捕獲した物産を買取って呉れる先もない。
今日で言うならば、抜き打に閉山された炭礦労務者にも似たものであった。
炭礦労務者ならば、金さえ持っておれば衣食住には困らないが、アイヌ人等は仮に所持金があったとしても、大平洋戦の末期同様、生活物資の流通機構が全く杜絶されたのだから、どうにもならず、起死回生の干頭に立たされた。
明治政府の開拓使庁は、之に対処するため、場所請負制度を漁場持と改め、明治七年迄廃止を延期した。
この期限は満了したが、十勝の実情は、まだまだこの機構がなくては住民 (概ね土人) の生活を保持することができない状態にあった。
さり乍ら藩政時代の遺制である場所請負制度を、是以上存続する訳にもいかないので、明治八年より十三年迄五ヶ年を期して、漁場請負制度に代るべき経済機構として、十勝旧土人漁業組合なるものを組織し、従前同様の機構によって漁業を営ましめ、生活物資の供給をもなさしめた。
組合とは言え、実質的には場所請負制度の延長に等しいものであり、勿論その経営には開拓使庁が指導監督の衝に当った。
明治十三年満期解散するに際り、精算の結果、総利益金五万三千八百十九円五厘の収益を挙げた。
この収益金は、一戸当り百六十七円十二銭の割合を以て各村単位に帰属を定め、開拓使庁が保管し、利殖を図ると共に、緩急の事態に処して同族の保護救済の資に充当することにした。
組合の収益金とは言えど、事実は開拓使の応急救護対策として、生活物資を官給して経営せしめたものであり、救助金品の余剰金と言ったものであるから、旧士人の救護基金と定めたことは、当然の措置と言わなければならない。
準固有公益財団的性格を有す
道内各地に於けるアイヌ部落の救済策も、殆んどこれと同一の方法で施行された。
後になって明治三十二年、北海道旧土人保護法の制定によって、之等の共有財産は同法の第十条の規定により、北海道庁長官の管理する旨を定められ、其の収益は同法第四条乃至第六条の費途に支出することと規定された。
即ち国有財団的性格を有するものとなった。
従って保護法第十条により、国が管理する旧土人の共有財産は一般民法に所謂共有権 (共有財産) とは根本的に其の趣旨を異にせることを銘記すべきものである。
p.169
回顧すればこの共有財産は、今を去る百年の昔、本道の拓殖政策を標榜して起った開拓使庁の積極的旧土人保護政策の遺産である。
開拓使十四年の治政は、旧土人に対する保護政策も実に積極的なものであった。
勿論当時対魯国境問題に絡む国際関係の事態が然らしめたことであろうが。
明治八年占守島のクリル土人を色丹島に移住せしめ、住宅を建て、学校を特設し、三年毎に官船を派遣し、食糧その他の生活物資を満載して渡島供給し、徹底した保護を実施し、同年十月二十一日、樺太旧土人八百五十四名を石狩国江別太、対雁に移住せしめ、専属の事務所及職員を配置し、徹底した保護施策を講じたる事実に徴してもその一斑が窺われる。
(拙著『北海道アイヌ保護政策史』より)
以上旧土人共有財産の造成過程及その性格を述べた。
百年間に亘ってこの財産が、同族の生活の上に役立ったことは高く評価してよかろう。
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喜多章明「旧土人保護事業概説」, 北海道社会事業, 第51号, 1936.
『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.79-105.
pp.88,89
以上の如き原因に基いて造成されたるものであるが、当時原始的生活より出でて間もない同族として、之を管理利用することは及ぴも付かなかった。
で是等の共有財産は開拓使役人或は地方有志に於て保管する等幾多迂余曲折を経たものであったが、明治三十二年土人保護法の制定を見るに及んで、国はこの財産管理上の制度を本法の上に採用した。
即ち
第十条
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北海道庁長官ハ 北海道旧土人ノ共有財産ヲ管理スルコトヲ得
北海道庁長官ハ 内務大臣ノ認可ヲ経テ 共有者ノ利益ノ為ニ 共有財産ノ処分ヲ為シ、又必要ト認ムルトキハ其ノ分割ヲ拒ムコトヲ得
北海道庁長官ノ管理スル共有財産ハ 北海道庁長官之ヲ指定ス
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と規定した。
本規定に基いて行ふ北海道庁長官の管理行為は言ふ迄もなく行政行為であって、彼の一般民法上の事務管理と全然その性質も異にするものである。
即ち彼の民法上の場合に於ては本人の意志を尊重するを要するも、この場合に於ては、何等本人の意志を付度する義務なく、共有士人族の利益と認むるときは、唯一長官の意志を以て、内務大臣の認可さへ経れば売却処分をなし、或は分割を拒むことが出来る。
共有財産の性質に就ても一般のそれと大いにその趣きを異にし、即ち一般の場合にあっては共有者は各持分に応じて使用収益するの権利を有するのであるが、この場合に於ては、法文に示す如く、
第八条
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第四条乃至第七条ニ要スル費用ハ 北海道旧土人共有財産ノ収益ヲ以テ之ニ充ツ、若シ不足アル場合ハ国庫ヨリ之ヲ支出ス
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と、あって、収益の悉くは保護法施行の財源に充当されることになってゐる。
名は共有財産であるが、法律上の性質及内容を検討すれば、現今の一般市町村に於ける基本財産的のものであり、又准国有的なものである。
是は要するに矇眛にして管理能力なき土人族の財産の浪費散逸を防ぎ、以て同族保護の政策を遂行せんとするものであって、それが為には一時財産の所有者たる旧土人の意志に背き、又は当面に生ずる旧土人の利害関係を斟酌することなく、国家の一方的意志を以て当該財産の管理及処分行為を専行するは蓋し已むを得ない。
旧土人中又は一般識者の中には往々にして、民法上の共有財産並に事務管理と同一視する向があるが、以上の趣旨を篤と諒承されたい。
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註 |
:「矇眛にして管理能力なき土人族」のことばは,「アイヌ差別だ!」論者の食指の動くところである。
喜多が述べているのは,「財産管理となると赤子同然の者だから,赤子扱いしたのだ」である。
よって,論者が「アイヌ差別だ!」として訴えねばならないことは,「アイヌは,赤子ではない!」である。
しかし喜多は,アイヌが「赤子同然」になる場面・場合をよく知る者である。対して,論者は知らない者である。
よって,喜多に対し「アイヌ差別だ!」を言う者は,現れてこない。
この現象は,「アイヌ差別だ!」はひとを見て言っているのだという事実を,よく表している。
したがって,「アイヌ差別だ!」を唱える者に対し,その者のロジックを探ろうとするのは,間違いであり,無駄なことである。
「探る」をいうなら,《その者のプラグマティックを探る》である。
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