アイヌの生活は,いつ頃まであったか:
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高倉新一郎「コタンを往く」(1949)
高倉新一郎『アイヌ研究』収載, pp.1-15.
pp.4,5
大正十四 [1925] 年の夏、私がはじめて室蘭を振出しに日高・十勝・釧路とコタンを訪ねて歩いた時、そこはまだ本当のアイヌの天地だった。
なるべく親しんで貰おうと、麻服にハンチング、巻ゲートル姿で、鞄片手にただ一人沙流谷にはいった時などは、渡守も、馬子も、宿屋の女中さえもアイヌ人で、私を薬屋と間違った。
平取の土人病院を訪ねて、院長が診察をすますまで病室に待っていた時などは、待合の人達は全部アイヌだったが、互いにアイヌ語で語り合い、ただ注射だとか、ハイエンだとかいう単語が日本語なので話題がそれとわかるだけ、アイヌ語のしかも単語の若干を字だけで知っているに過ぎない私には、ここも日本の中だろうかと心細い限りだった。
至る所に堂々たる葭葺のひさし「庇のピンとはねかえった」家が軒をならベ、ヌササン (幣所) には高々とカムイサパ (熊の頭骨) が祭られてあった。
プー (高庫) があり、エベレセツ (熊の檻) には小熊が南瓜を喰いちらしていた。
案内してくれたEさん等は、角刈りに和服の堂々たるシャモ姿ながら、入口の前で咳ばらいをして「おはいり。」という声を聞いてから、鞠躬如として中にはいり、アイヌ語で来意を告げる、と、横座の主人はパイプを彫る手を止めていかにもゆっくり膝のゴミを払い、挨拶を終えた私を鋭い目で見通すように一瞥してから、静かに挨拶を返す。
鷹揚なものだった。
衣服は木綿の垢のついたものながら、真中から二つに分けて項までたらした頭髪、目の下から頭全体を覆うて胸までたれた白髯、物しずかな話しぶり、私は本当のコタンコルクル (酋長) を目の前にすることができた。
彼の後には金蒔絵の漆器が山と積まれ、壁には所せまきまでに懸刀や武器、お守り等が吊され、炉には大きな木が横たえられて、火の神をまつるイナウが竝んで立てられ、天井からはツナ (吊棚) がかかり、粟の穂やウグイの燻製等をぶら下げてあった。
途で会った時、静かに目を伏せて右手で口をおおいながら片側へよけて、私達が通りすぎるまで動かなかったメノコは、黙って挨拶をして、静かに茶を煮てすすめてから、退いてまたツギ物をつづけた。
手の甲にはあざやかないれづみが怪しく光っていた。
主人は人を喰った熊とそうでない熊との見分け方や、ヌササンに籔のように茂っているイナウに根が生え芽が出たのや熊祭の時に撒いた胡桃の芽生え等が何か特別尊いものであること、さては熊狩の話などを、私にではなく、Eさんに話すようにポツポツと、しかし何か大きな自信に充ちて語ってくれた。
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「コタンの最期」は,<消滅>か<更新>か<廃頽>かである。
<廃頽>は,《身寄りのない年寄り・障害者・病人が残り,死ぬ》が「最期」の形である:
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高倉新一郎「コタンを往く」(1949)
高倉新一郎『アイヌ研究』収載, pp.1-15.
pp.4,5
大正十四 [1925] 年の夏、私がはじめて室蘭を振出しに日高・十勝・釧路とコタンを訪ねて歩いた時、そこはまだ本当のアイヌの天地だった。‥‥‥
pp.13,14
交通の便利なところ、殊に古くから和人と接触のはげしかった海岸の部落では、幣所もなくして、普通の漁家と檐をならべていた。
血の多くは入り混って、ただ、あそこの祖父が、祖母がそうだったというに止まる。
ただ旧土人給与地という僅かな世襲財産のためにその戸数に数えられているに過ぎない。
すっかり和風化した部落のはずれに、どうしても昔の生活から抜け切れない若干の老人が、昔ながらの家に住んでいた。
しかしその老人が一人逝く毎に、こうした家が永久に失われて行く。
私は、まだ変らない部落を求めて、「あんなひどい所はない。」といわれたO村市街から三里山奥のN部落を訪ねた。
U河の荒れた河原に点々と断続した貧村だった。
ある家を覗いた。
柾家板囲いのちょっとした家だったが、畳道具が一つもなく、窓硝子は失われ、床にはニ寸ほど塵がたまっていた。
空家だと思って去ろうとすると、片隅のボロの山がムクムクと動いた。
乳をふくませている母親だった。
子を背負って出て来るのを見ると盲だった。
声をかけても、返事もせずに私の側をすりぬけて、薯畑で杖をたよりに手さぐりで薯を掘り始めた。
聾だったのである。
美しい子守歌を口ずさんでいた。
帰りにその主人が、浜から魚のザッパを貰って帰って来るのに逢った。
これも盲だった。
部落長から聞いた家数とどうしても合わないのでよく聞くと、その裏にあるのだという。
行ってみると、屋根は半ぱはげ、壁は落ち、傾きかかった堀立小屋だった。
私はうっちゃられた厩だと思っていたのである。
はいると、土間に藁が敷いてあるだけ、青ざめた男がボロをかついで寝ていた。
「どうしたんだ?」
と聞くと、
「もうだめだ!目が見えない。」
と、かすかな声で答えた。
「ただ一人こんな所に置いておいて、かわいそうに‥‥‥。」
というと、私について歩いていた物識りの背椎カリエスでセムシになヮた男が、
「私が世話してます。」
といった。
その男の顔色も土色だった。
「医者に見せたの?」
と聞くと、
「見せても駄目なんです。」
と、さびしく笑っただけだった。
長いあいだ出稼ぎに出て、死ぬために帰って来たのだそうだ。
私は冷たいものが背筋を・走るのを感じた。
酋長も病気だった。
セムシの男が死ぬと、もうこの部落では昔の話を知っているものがないという話だった。
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<廃頽>は,慢性化してそのまま続くことがあり得る。
このときは,コタンは「スラム街」に変じる:
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菅原幸助『現代のアイヌ──民族移動のロマン』, 現文社, 1966.
pp.29,30
節婦コタンからしばらく歩くと新冠の町にでた。
町役場の民生係に聞いた話では、アイヌの老人たちがコタンでねむるように死んでいることがあるそうだ。
若いころは漁場や造材飯場で働いているが、年をとって収入がなくなると日高のコタンにもどってきて、淋しい生涯をおわる者が多いのだ。
ことしもユーカラの語り手だった老婆が、ひとりコタンのチセで静かに息を引きとった。
近所のひとが、おばあさんが二,三日姿をみせないのでたずねてみると、土間の上でワラにくるまったまま動かない。
そばで、アイヌ犬が二匹、ふとんのかわりになっておばあさんの死体を温めるように添寝していたという。
民族学の研究資料としては世界的に貴重なものといわれるユーカラの語り手だったこのおばあさんは、野良犬のぬくもりをまさぐりながら、淋しく世を去ったのである。
日高地方のコタンには、こうした身寄りのないアイヌの老人や、生活に追いつめられたウタリたちが集まって、ひとつのコタンを形成しているところがあちこちにある。
北海道庁の職員は、それを "日高のスラム街" と呼んでいた。
貧しさと、結核患者が多く、素性のわからないひとたちが多いからだ。
アイヌの老人のほかに、戦争混血児や外国人などが集まってくるのも特徴だ。
ひとつのチセで住人が死に絶えても、すぐそのあとにどこからともなく新しい住人が現われて住み着いてしまう。
おどろいたことに、こうしたコタンで死ぬひとたちの九割までは老人結核が死因になっているという。
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