「観光アイヌ」は,同化派"アイヌ" から嫌悪される。
同化派"アイヌ" が「無い」とするものを,「観光アイヌ」は「有る」にするからである。
「観光アイヌ」は,自分に対する同化派"アイヌ" の嫌悪を知っている。
そこで,自分を正当化したく思う。
正当化するばかりでなく,さらに同化派"アイヌ" に反撃したく思う。
この「観光アイヌ」は,「民族」イデオロギーを自己正当化に用いるようになる。
実際,「観光アイヌ」は,「民族」イデオロギーを以て反撃に転じることができる。
同化派"アイヌ" を,「アイヌを捨てシャモに降った腑抜け者・裏切り者」として,攻撃することができる。
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新谷行「橋根直彦、獄中からのベウタンケ」
『増補 アイヌ民族抵抗史』, 三一書房, 1977, pp.288-298.
pp.288-290.
「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」(自ら行動するアイヌ民族学会) は、アイヌ解放同盟、北方民族研究所による学界糾弾の直後設立されたもので、アイヌ成田得平を会長とし、主として山本多助翁の継承するアイヌ民族の伝統文化を発展させようとするものである。
現在までのところ、山本翁のつぎのようなものを刊行している。
『言葉の霊イタクカシカムイ』(昭和四十八年二月)、
『どっこいアイヌは生きている』(昭和四十八年七月)、
『第一号日本列島一周旧地名追跡調査』(昭和四十八年十一月)、
『第二号日本列島内オノコロ島見聞記』(昭和四十八年十一月)、
『アイヌ語小辞典』(昭和五十一年五月)、
『九州の旧地名と各地方の見聞記』(昭和五十一年五月)
などである。
山本翁のめざしているものは、彼が若いときから樺太その他の地方を歩き、身につけたアイヌのあらゆる伝統文化を消させることのないように、若い者にそれを受け継がせようとするところにあるといっていいだろう。
したがって、その範囲はアイヌ語をはじめとしてユーカラ、各地の地名の由来、それに古典舞踊などきわめて広い。
特にその地名解は、本州の南端九州まで脚をのばし、そこの旧地名にアイヌ語で解決できるものまでも探し求めている。
おそらく、これによって本州の南端までいわばアイヌ、あるいはそれに近い文化圏が古く存在していたことが推測することができるだろう。,
山本多助翁のこうした活動を現在、「ヤイユーカラ・アイヌ民族語会」が充分に生かしきっているかどうかは多少疑問も残るが、アイヌ自身の手によるこうした活動は充分に評価されてよい。
一部の者は、こうした活動を観光的だというが、それは実情をよく見きわめない者のうわすべりな言動にすぎないだろう。
彼等が観光的だというとき、それはおそらく阿寒の観光部落をさしているのだろうが、そう言う前に、先づ第一に観光的なことをやらねば生活できなくしてしまった日本人社会の責任を問わねばならない。
そして第二に、彼等はたとえ観光で生計を立てながらも、その陰では伝統的な舞踊など古典をしっかりと残していっている。
もちろん、ここで私はアイヌを見せ物にする観光がいいのだなどという考えは毛頭ない。
アイヌの復権ということを考えるとき、観光はなんとしても否定されねばならない。
しかし、この問題は性急に解決を求めたら、アイヌ人の一部が本当に無惨な姿で敗退してしまう。
あくまでも復権への長い道程の中でアイヌ人自身が自ら解決してゆかねばならないことだし、日本人もまたアイヌ民族への認識をあらたにして百八十度の意識の転換をもって彼等を支援してゆかねばならないだろう。
ところで、このことに関して一つ気になるのは、二風谷のアイヌ文化資料館である。
この資料館ができるとき、貝沢正が、
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アイヌの歴史を書き改める基盤ができた。資料館を足場として、若いアイヌが闘いの方向を見極め、これからの正しい生きかたの指標としていくことを期待したい」
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と語った。
私はこれに対して、「これを一部の者の私物にしてはならないし、絶対に和人的な剥製品の展示場、博物鰭にしてはならない」と述べた。(本書二七六頁)
それから約五年、一体、貝沢の言明したとおりにことは運んだろうか。
聞くところによると、この資料館の実際の責任者でもある萱野茂が道庁から予算をもらい、金成まつが書き残した大量のユーカラを日本語になおしているという(註)。
アイヌ民族にとって金成まつの仕事を継承することはきわめて大切なことである。
しかし、私はこの萱野の継承の仕方の中に和人社会の中に同化吸収されてゆく一つの危険性を見ないわけにはいかない。
そして、貝沢が言ったような「アイヌの内面から見た正しい歴史の探究」もいつの間に消えてしまったような気がしてならないのである。
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そもそも,"アイヌ" (「アイヌ」僭称者) であることは,「観光アイヌ」であることと同型である。
"アイヌ" は,自分を「アイヌ」としてアピールする者である。
アピールの形は,《自分を「アイヌ」らしく見せる》である。
それは,「アイヌ」の格好をするということである。
「アイヌ」の格好をすることは,時代錯誤である。
時代錯誤に「アイヌ」の格好をして「アイヌ」をアピールする──この位相を「観光アイヌ」という。
自分を「アイヌ」としてアピールすることは,「観光アイヌ」になることである。
註. asahi.com 2006-08-12
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200608120394.html
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アイヌの遺産「金成マツノート」の翻訳打ち切りへ
2006年08月12日23時04分
アイヌ民族の英雄叙事詩・ユーカラが大量に書き残され、貴重な遺産とされる「金成(かんなり)マツノート」の翻訳が打ち切りの危機にある。言語学者の故・金田一京助氏と5月に亡くなった萱野茂氏が約44年間に33話を訳した。さらに49話が残っているが、事業を続けてきた北海道は「一定の成果が出た」として、文化庁などに07年度で終了する意思を伝えている。
ユーカラは、アイヌ民族の間で口頭で語り継がれてきた。英雄ポンヤウンぺが神様と闘ったり、死んだ恋人を生き返らせたりする物語。
昭和初期、キリスト教伝道学校で英語教育を受けた登別市の金成マツさん(1875〜1961)が、文字を持たないアイヌの言葉をローマ字表記で約 100 冊のノートに書きつづった。92の話(10話は行方不明)のうち、金田一氏が9話を訳し、萱野氏は79年から道教委の委託で翻訳作業を続けてきた。その成果は「ユーカラ集」として刊行され、大学や図書館に配布された。アイヌ語は明治政府以降の同化政策の中で失われ、最近は保存の重要性が見直されつつあるが、自由に使えるのは萱野氏ら数人に限られていた。
文化庁は「金成マツノート」の翻訳に民俗文化財調査費から28年間、年に数百万円を支出してきた。今年度予算は1500万円のうち、半額を翻訳に助成。同予算は各地の文化財の調査にも使われる。
これまでのペースでは、全訳するのに50年程度かかりかねない。文化庁は、「一つの事業がこれだけ続いてきたことは異例」であり、特定の地域だけ特別扱いはできないという。これをうけ、北海道は30年目を迎える07年度で終了する方針を関係団体に伝えた。
道教委は「全訳しないといけないとは思うが、一度、区切りを付け、何らかの別の展開を考えたい」としている。
樺太アイヌ語学研究者の村崎恭子・元横浜国立大学教授は「金成マツノートは、日本語でいえば大和朝廷の古事記にあたる物語で、大切な遺産。アイヌ民族の歴史認識が伝えられており、全訳されることで資料としての価値が高まる」と話している。
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この記事が奥歯に物の挟まった言い方で言っていることは,「金成マツノート翻訳は,アイヌ利権だ」である。
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