政治"アイヌ" は,「善玉悪玉」で考える。
政治"アイヌ" の政治イデオロギーは,善玉悪玉イデオロギーである。
結城庄司 (1938-1983) は,つぎのテクストを書いているとき,善玉悪玉イデオロギーの極みを見せてくれている:
「ウタリに寄せる ──自然主義者、アイヌの道」
『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, 旭川人権擁護委員連合会, 1971. pp.437-447.
「善玉悪玉」は,幼稚な思考回路である。
善玉悪玉イデオロギーの極みは,幼稚の極みである。
結城庄司は,このテクストを書いている時代の革命的高揚気分を差し引いても,無惨なまでの幼稚さを曝す。
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p.441
問題はまだまだたくさんあるが、そうではない良き隣人(和人) も大勢いた。
その和人たちは、同じ日本人でありながらいろいろな事件をおこした同民族である和人の社会から追放同様にされた。
それは日本の社会に受けいれられない人たちでもあった。
この人たちはアイヌコタシに逃げるようにして住みついたのである。
そしてメノコと結婚してアイヌの風俗にもすっかり溶け込み、心の底からアイヌを愛した人たちであった。
やがてこういう人たちが増えて次第にアイヌも混血化していったのである。
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善玉悪玉イデオロギーの含蓄を端的に示す一節である。
「善玉悪玉」は,二値論理である。
悪玉の<反>は,善でなければならない。
こうして,「和人の社会から追放」「日本の社会に受けいれられない」の者は,善にしなければならない。
「良き隣人(和人)」にしなければならない。
結城庄司は,「メノコと結婚してアイヌの風俗にもすっかり溶け込み、心の底からアイヌを愛した」を見たことなどない。
しかし,「善玉悪玉」の二値論理から,こうでなくちゃならないのである。
結城庄司のこの思考回路は,窮民革命論と容易に結びつく。
結城庄司は,「アイヌ解放同盟」を結成する (1972)。
「解放同盟」の名称は,「部落解放同盟」との同型を立てたつもりである。
「解放されるべき民」として「アイヌ」を立てるわけである。
「解放されるべき民」,それは「窮民」のことである。
「アイヌ解放同盟」を結成するとは,「アイヌ=窮民」を立てることである。
「この馬鹿は何様のつもりで《アイヌ=窮民》を立てるのか」の体なのだが,結城庄司は前衛主義の者である。
自分で自分を「アイヌの代表」に据えるのである。
《「アイヌ」が自分のようでないのは意識が低いからであり,意識が高くなれば自分のようになる》と思っているので,自分を「アイヌの代表」にして,「アイヌ」に断りも無く《アイヌ=窮民》を立てるのである。
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p.444
自分たちの真の主張をつらぬき通すためにも、本当の幸福を得るためにも民族組織活動の重要さを知らなければならない。
アイヌには、民族解放運動に必要な材料は幾人もの学者によって数え切れないほどたくわえられているし、その歴史的証拠によっても、本当の偽善者は何んであるかを知ることができる。
それによってアイヌ系住民自身が進んで知識を得、自覚に燃えて経済的闘争あるいは精神的闘争に備え、着実に戦わなければいけないのである。
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善玉悪玉イデオロギーの<幼稚>の中身は,「幾人もの学者によって数え切れないほど」の類の,<思考停止>である。
結城庄司は,「幾人」「数え切れないほど」を実際には数えたこともない。
どれほど数えれば「幾人」「数え切れないほど」を言えるかということを考えたこともない。
<数える・考える>をするのは科学のアタマだが,結城庄司は科学のアタマとは無縁の者である。
思考停止をやっていることがわからないのは,勉強しないからである。
勉強しないのは,自分はパーフェクトと思っているからである。
自分はパーフェクトと思うのは,「成長」ということを知らないからである。
「成長」を知らないのは,子どもだからである。
結城庄司のテクストの一部を引いて結城庄司を「幼稚」に決めつけるのは,結城庄司に対し公平を欠く構えである。
そこで,「結城庄司の名誉のため」として,このテクストの全文を引いておく:
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ウタリに寄せる
──自然主義者、アイヌの道──
結城庄司
「アイヌ」とは、"人間"という意味である。
"私は考えなければならない。
何を、何を、どうして、どうして"
なぜ、現代もなお自問自答しなければならないのか。それは、アイヌ民族の血をひいて生れたからか。いや、それも違う。やはり人間であるからだ。
「人間、人間」、「アイヌ、アイヌ」、何度繰り返して呼べども、何の返事もない。どうしてだろう。
「無想である」
「無気力である」、何んでだろう。
「いや、それを考えようとしないからである」
「いや、そうでない。考えたくないからである」。いや、そのうちのどちらでもない。何を考えればよいのだろう。
「また、何をか」
「どうでもよい」
「いや、それでは駄目だ」
「そうしたら、どうすればよいか」
「それが俺れにもわからない」
「あまりにも無限だ」
「が、だ」
「民族と自然のつながりだ」
「どういうことだ」
「俺れにも言葉で云えない」
「そうしたら何も語れないではないか」
「何が無限で、何が人間で、何が自然のつながりなのか」
「どうして語れないのか」
「それがわからない」。わかるのは、今こそたたかわなくてはならないことだ。だが、がむしゃらに考えたって,一人でなやんだってしょうがないことだ。じゃ,どうすればよい。それは皆なで考え、皆なでたたかうことが一番よいことだ。
"たたかう" 目的はなんだ。
目的は何千年も昔からアイヌ(人間) は生き残って来たのだ。生きる。それは戦いだ。それが目的だ。アイヌは大自然と戦い、山、海、河を神々とし世界を大地として生きて来たのだ。
その足跡が、北はコリヤーク山脈より北太平洋オホーツク、カムチャツカ半島、それは自然の神々の聖地であった。
そして、北海道、神の思召すところアイヌは、大自然がもたらす宝の山でいっぱいだった。
そして、自然にさからわず自然を愛し心はおおらかで、自然が人間に与えるもの総てが神々の恵みと考え、──生きるもの総てが神々の使者と考え、──自然が奏でるものは、神の声であり生活のリズムとし、四季のうつり変りを、最高の神(太陽) が自然の神々に与える衣と考え、──アイヌはいちようにそれを喜びそれにさからわず、春夏秋冬の産物は上下の差なく総て平等に分け、それを平和と考え、──貧しき者あればそれは心だと考え、── 病弱な者あれば神に祈り、神の教えにより薬草を造り、神のわかす湯(温泉) につかり、悪しき者あれば神の教えを仰ぐよう旅にたたせ、自然に忠実であるよう常に学び伝え、自然を制覇するものは、神と信じ人間にあらずと教え伝え、──風雲雨雪、ひどき時は神の怒りと思い、青天山野に小鳥鳴き、湖面に山々の姿を写す時、神の喜びの姿と考え、──アイヌ(人間) 一同にまた喜びをわかちあい、何千年の昔より平和を誓い、幾千年時が過ぎようと平和の姿は変らずと信じ、未来の大地に向って旅にたち、アイヌ(人間) の求めるものは永遠に変らじと心から神々に析りをささげるのであった。
ところが、どうであろう。
人間が人間を嫌い憎しみあい、物を奪いあい、大地に呪いの血を流し、幾千年の未来に生きようとしないで、また、自然を神とも思わないで、それのみか勢力を創るために神を騙りいつわり、勢力あるいは権力の象徴に祭りあげ、淳朴無垢な大衆を寓拝させ、戦にかりたて勝利者は敗者を差別し、勢力のもとに人間が人間をしばり、自然の神々にさからうように山野に切り首をさらし、暴力によって忍従させ、その事を日常の茶飯事として物欲に目を光らす一群が南より侵入して来たのであった。
アイヌの聖地、蝦夷に暗雲をなげかけるようになったのは何時頃からだったのであろう。
この時よりアイヌの苦闘が始まり清らかな大地もしばしば血を見るようになり、平和なコタンに病魔の影がさし始めたのであった。
アイヌはあるとあらゆる物心両面より、新天地を求めて我もの顔にあたかも征服者のようにあらしまわる権力者、和人に対し何回かの戦いをいどんだのである。
しかし、それは、古来民族の文化と領域を守るための戦いだけにしかすぎなかった。
戦いによって文明を生んだ和人は武器もすぐれ、戦いを好まないアイヌは武器もまったく原始的で後退をやむなくされた。
その歴史は多くの書物にしるされてあり、被征服者の隘路をたどり敗戦のたびに一方的な証文に誓いをしいられたが、アイヌは決して屈せず、民族の習慣や民族の文化を守りながら現代に生き残って民族の血を再び世界に訴えようとしているのである。
これは、自然主義者と破壊主義者の戦いでもあった。
アイヌも現代では一般と何等変らぬ教育を受け、社会知識も和人と同等に得て、ほとんどのアイヌ系住民は和人にだまされるようなこともないまでに成長したのであるが、そのときには、土地もなく漁場もなく、あるものは差別と貧しい生活、そして暗い将来と旧土人保護法のまやかしだけであった。
一九七○年においてわれわれは悲しい程に民族の苦闘に満ちたアイヌ歴史を知らされた。
この時点にたたされたとき、先祖に対する略奪につぐ略奪と搾取による精神的な圧迫、そしてアイヌ経済の圧迫などの圧制に対する抵抗にも負け、さらには和睦時における指導者の謀殺により、完全にアイヌ民族は孤立を余儀なくせられた。
生きてながらえるためには、奴隷同様に重労働にあえて従わなければならず、かつては自分たちが漁をなし富をなしていた漁場は和人の宝庫となり、銀鱗を横目でみながら喰うや喰わずの生活が続けられたのである。
また、メノコは和人のなぐさみものにされ、自分の妻や娘まを奪われたうえ、一生懸命に働いて得た獲物までが、"アイヌ勘定" といって「始まり、一、二、三、‥‥‥‥‥‥,八、九、十、終り」と後、先二つはごまかされても何の抵抗もできなかった。
アイヌたちは、心の中で報復の念をいだき、また子孫にもそれを期待するところのみが明日を生きる強い希望となって、何百年の圧迫にも今日まで生きながらえさせたのである。
政府のアイヌ人子弟の教育にしても、それはできる限り最低の方法にのみとどまり、アイヌ教育の熱望に燃えたのは和人でなく、むしろキリスト宣教のイギリス人たちであった。
このような政策は、アイヌに日本の教育を与えることによって独立の思想に燃えることを恐れたからである。
できる限り教育程度の低さを政策の基本と考えたといっても過言ではないであろう。
その歴史的証拠としては探険家や学者が証明する多くの文献がある。
アイヌの子弟が学校に行けないのは、アイヌ経済圧迫による家庭の貧しさゆえであり、かつ、子供には冷酷過ぎる差別という扱いが、それにも増して大きな一生涯の問題であったばかりでなく、喰べることが先で幼いときから家のために働かざるを得ない状況の方が強かったのである。
また、容ぼうの異なるアイヌの子は「アイヌ、アイヌ」と征服者の子供たちから馬鹿にされ、その親も常にアイヌを蔑視し、ために民族はいよいよ内にこもるばかりで、すっかり日陰の生活を送った時代であった。
問題はまだまだたくさんあるが、そうではない良き隣人(和人) も大勢いた。
その和人たちは、同じ日本人でありながらいろいろな事件をおこした同民族である和人の社会から追放同様にされた。
それは日本の社会に受けいれられない人たちでもあった。
この人たちはアイヌコタシに逃げるようにして住みついたのである。
そしてメノコと結婚してアイヌの風俗にもすっかり溶け込み、心の底からアイヌを愛した人たちであった。
やがてこういう人たちが増えて次第にアイヌも混血化していったのである。
しかし、この混血の問題では悲しい運命によって生まれたアイヌの子供もたくさんいた。
メノコは元気のないアイヌ青年に失望して結婚を嫌い、好んで和人の男たちといっしょになったが、所詮アイヌを軽蔑している和人の男たちは、仕事を終えるとメノコの妻子をいとも簡単に捨てて内地に帰り、もう戻って来ない悲しい例はたくさんある。
また、"おつねんむこ" といって、喰いつめた和人の男がメノコといっしょになりメノコに働らかせて冬中喰わせてもらい、春になるとどこかに姿をくらましてしまう男もたくさんいた。
こうしていろいろな必然的条件によってアイヌは純血から混血への道をたどったことが、今ではアイヌ系住民といわれているわけである。
政府の要人は、このような弱い人間同士が生きて行くために人種的差別を乗り越えて結婚生活をしてることを同化対策といっているが、とんでもない話しである。
混血化されてゆくアイヌを、何んで対策によって人間の血が変えられるというのであろうか。
ここに大きな疑問がある。
同化政策とよくいうがそれは具体的にどんな対策であったのであろうか。
アイヌが幾百年も苦しめられて来た精神的な面までを、忘れさせ変えることはでさないのである。
だが、アイヌ系住民の多くは現代の日本社会において、まったくの社会的基盤や経済基盤をもっていないだろぅ。
そればかりか自分たちがアイヌ系住民でありながら、アイヌ再興のために運動する気力さえ失っている。
アイヌが和人と異なることは、世界の学者の認めるところである。
そのアイヌが民族の独立を訴えても不可解なことではないだろう。
しかし、資本主義社会は常に少数民族の犠牲の上になりたって来たのであり、現代もなおその戦いに大資本を注ぎ込んでいるのである。
また、国家的行事をつかさどる政治家も多勢を好んで少勢を好まず、せいぜいアイヌが選出されるのは、町会議員ぐらいのもので、今の選挙方法ではアイヌ系住民より政治家を出すことは無理難題である。
過去の歴史的段階からいっても、このままアイヌ系住民を放って置くわけにはいかないだろう。
アイヌは何も悪い事はしていないし、むしろ日本人と共に過去何回かの戦争の歴史の中で各国と戦って来たし、戦死者もたくさん出して来た。
現在アイヌ系住民が政府に向って要求することのできるのは、アイヌもようやく日本国の教育レベルに達し自分たちで社会状況を判断し、世界の状態を考えられるようになったからである。
もう政府から保護される必要はない。
保護という名のもとにいろいろな面で権利放棄をさせられ、そればかりかあたかも恩典であるかのようにすりかえられて、植民地政策の落し子のように扱われたのは、明治末期までアイヌを無視した思想であり、このような人間としての平等な精神に反した日本の政府に対して、アイヌ(人間) である以上当然怒りを感じないわけにはいかない。
だれかが「明治は遠くなりにけり」といったが、アイヌの人権問題に関する限り、明治末期における植民地政策の旧土人保護法がそこに残っている限り、明治も大正も昭和もないとはっきりいえるのである。
われらアイヌ民族は、世界の部族として独自の文化の伝統を守り、骨格容ぼうもはっきり異った自然主義者である以上、政府も国際的視野のもとに今こそ真剣に考えるべきときである。
アイヌもまた、明確に権利を主張し平和目的のために義務を果し得たときこそ、アイヌ系住民の今後は、世界に向って胸を張り他の種族と共に平和を求めて差別なき歴史の建設と生活が始めて存在するのではなかろうか。
鶴を保護しようとしてその片羽根の関節骨を切り、鶴が速く飛べないようにしている自然公園があるが、政治の中でアイヌの置かれてきた立場も、旧土人保護法もそれに似ている。
アイヌは人間であるから羽根の関節骨を切られるようなことはなかったが、いろいろなことを総合して考えるとあまり変らないといってもよいだろう。
もっとも、日本人社会における本当の民主社会は第二次世界大戦後であり、労働者の真の生活向上も敗戦による旧社会機構の破壊と低階級である労働者層の組織強化の促進が現在の国民的地位の礎となった。
政府あるいは資本主義者への頑丈な城壁となったのは、真剣な組織活動があったからこそである。
そうした組織力がアイヌに弱かったのは、その方面の活動には経験も浅く組織的知識が低いせいもあって、他の組織も進んで協力態勢に入って来ない事情が現在まで続いて来たからである。
また、一番の原因は運動資金の之しさであろう。
アイヌの職種は、主に農業、漁業、観光業に大別できるが、職業差が組織のむずかしさを物語っている。
しかし、その中でも戦後の産業では特に観光事業においてめざましいものがあった。
"観光とアイヌ" のキャッチフレーズは、観光客の導入に一役も二役も買い大きな資源であったはずである。
その中でもアイヌ民芸品による収益は大きい。
この大なる産業は道外資をかせぎ北海道業者はうるおった。
だが、ここでも不可思議な現象が起きているのである。
アイヌ民芸品として売り出される土産品生産者のほとんどが和人であって、その資本の構成も和人勢力によって占められており、アイヌは民芸品の製作業者たちから疎外されつつある。
この事態は何を語ろうとしてるのか。
それは、やはり組織の弱体と経済資本の基盤がいかに浅いかという証左でもある。
この点にはアイヌ系住民も真剣に考え、深く反省しなければならない。
自分たちの真の主張をつらぬき通すためにも、本当の幸福を得るためにも民族組織活動の重要さを知らなければならない。
アイヌには、民族解放運動に必要な材料は幾人もの学者によって数え切れないほどたくわえられているし、その歴史的証拠によっても、本当の偽善者は何んであるかを知ることができる。
それによってアイヌ系住民自身が進んで知識を得、自覚に燃えて経済的闘争あるいは精神的闘争に備え、着実に戦わなければいけないのである。
そこで、われわれはいかなる社会問題にも目を光らせ、偽善者を許す事なく、他の組織と提携し、多くの世界少数民族問題にも進んで参加し、多くの歴史的過去の経験を教訓としてこれを活かし、世界の平和と人権高揚の推進力となったときにこそ、アイヌ歴史の新らしい道が始まるのである。
その時代もそう遠い将来でないことを多くのアイヌ系住民が確信することは夢であろうか。
万物のふるさとは大自然である。
アイヌは大自然より生れて白然を愛し、大自然より与えられる生命によって生きて来たのである。
また、人間は大自然の前において等しく平等でなければならない。
手段方法は変るけれども白然が与えてくれる宝はたくさんある。
それは海、山、原野と昔から速いところにではあるけれども、それを自ら求めなければならない。
だが、そこにも権力がはびこってくるのである。
人間が人間を拘束しているのであるが、アイヌ史の見地より考えたとき、獲れたものは、平和的手段に訴えてこれを取り戻すことは当然のことと考えなければならない。
ひいてはアイヌ経済の発展ばかりではなく、日本民族の福祉国家としての形成に役だつことにもつながるのである。
このような真の共存共栄の社会創りに努力するところに大きな意義を持たなければならない。
現代の日本の社会機構は、資本主義社会の道を余儀なく歩んでいることに多くの批判と多くの疑問を感じなくては、自然主義者アイヌのふるさとは取り戻すことができない。
また、偽善者は一体誰れであるかを知ることもできないのである。
そればかりではなく、子孫の繁栄と高度の文化も望むことさえできない。
原子の文明も自然が教えてくれた最大の科学であると同時に、破壊主義者の最大の武器でもある。
だが、自然主義者には平和というこれまた自然が教え与えてくれた最高の精神的文化がある。
アイヌ(人間) は後者を選び、前者はこれを平和的に利用することのみを訴えなければならない。
そして、今やアイヌは自然主義者たることを全世界に訴え、アイヌ系住民自身の精神の統一をはかる時期でもある。
その時にこそ多くの大衆は差別を忘れ、この時にこそ真の味方のいかに多いかを知るのである。
一九七○年の世界は "こんとん" として、あきることを知らない。
だが歴史は平和の積み重ねでなければならなぃ。
戦争は経済的侵略の手段にほかならない。
アイヌ民族もまた、戦闘手段による経済侵略者の犠牲者であった。
現代の日本の政治に真の民主的国家としての要素があれば別だが、資本主義者が社会構成の軸である以上、アイヌはやはり犠牲者には変りないのである。
意味の異なる現代の為政者たちに我々アイヌ系住民は真向から損害賠償の請求をしなければならない。
それをだれが否定し、あるいはこばむことができるだろうか。
ここにおいてアイヌ民族があえてそれを訴えなくしては、いかなるものも得ることはできないだろう。
アイヌは支配者にさからわないで生ぎるといわれる。
しいたげられた永い永い歴史の中ですっかりその精神までが弱りきっているのであろうか。
そんなことではない。
ただ、指針を見出せなかっただけなのだ。
一九六八年に北海道百年記念が多額な金を使って国家的行事として、天皇陛下、総理大臣その他多くの政治家や政府の要人の列席のもとに行なわれたが、開道百年とは明治元年より起算してのことであり、ここでもまた、アイヌ系住民をまったく無視しての行事が行なわれたといってもいい過ぎであるまい。
それは、旧土人保護法が制定され、自然主義民族の狩猟という生産が漁場請負制度という勝手な制度により、アイヌは完全に狩猟生産による生活の手段が断たれたばかりか、今度は和人の漁場の大事な労働力として強制労働に従事させられ、山野の狩猟もじよじよにではあるが禁制を加えられ、アイヌの持つ弓矢は和人の鉄砲の狩猟にかなわず、ますます虐待の度合が強まり、それが明治の末期まで続いていたのである。
こうした北海道の歴史の中におかれて来た本当のアイヌの姿と苦しみを知ろうとしないで、開道官年という国家的行事によって真実を葬り去ろうとすることは、何を意味していたのであろうか。
明治三十三年にアイヌに対する植民地政策の法律が制定された。
それが「旧土人保護法」であったと解釈しても誤りではない。
すなわち、日本歴史の観点からいっても、明治初期はいろいろな意味で文明開化、あるいは自由民権運動が発展した時代であるが、明治の末期に及んでアイヌ(人間) を無視した差別と偏見によりアイヌを不毛の地に追いやり、さらに圧迫を加えたといっても過言ではあるまい。
これはその給与地のほとんどが、同じ開墾地でも三級地以下の地形土質であったからでもある。
それにもアイヌは、無勢に多勢という境遇を考えて身をよせあい、小さくなって偶善者の圧迫に対して無言のまま戦って生きなければならなかった事実は、何んと残酷な歴史であったろうか。
それを「旧土人保護法」がそのまま物語っているのである。
執筆者紹介 |
一、現在のお仕事
アイヌ民芸品製作販売
二、主なご経歴
阿寒国立公園阿寒湖畔のアイヌ部落建設運動に参加
(昭和三四年)
社団法人・北海道ワタリ協会に入会 (昭和三五年)
同協会理事に就任 (昭和四三年) 現在に至る
三、著書名・論文など
「土入学校」(未発表)
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