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村上島之允 (1809), p.556
夷人の食は鳥、獣、魚等の肉を専らに用ると雖も不毛の地にして禾穀の類のたえて生ずる事なしといふにはあらず。
又禾穀の類をたえて食する事なしといふにもあらず。
ここに圖する處は即ち稗の一種にして烏禾 (クロビエ) の類なり。
これは蝦夷のうちいづれの地にても作りて糧食の一助となす事なり。
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但し極北の地ネモロ、クナシリ島などいへる處の夷人の如きは、かゝる物作れる事あらず。さればひとしく蝦夷の地なりといへども、殊に邊辟たるによりその開けたる事もおそくして未かゝる物抔作るべきわざは知るに及ばざる故なり。
絶て禾穀の生ぜざる地といふには非ず。
すでに本邦の人の行て住居するものは、あるは菜、大根等を作るによく生熟する事なり。
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同上, p.556
夷人の傳言する處は、この國闢けし初め天より火の神ふり給ひて此種を傳へ給えり。
夫よりしてかく作る事にはなりたる由なり。
然る故に是を尊ぶ事大かたならず。
其作り立るより食するに至る迄のわざことに心を用るなり。
其次第は後の圖に委しく見えたり。
是より出たる糠といへどもみだりにする事あらず。
其捨る所を家の側に定め置、ムルクタウシカモイと稱して神明の在る處となし、尊みおく事なり。
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同上, p.556
是のみに非ず、近き頃に至りでは、蝦夷のうち極北の地にあらざるところは粟、稗、大根、菜とふを本邦の人より傳へて作れる夷人ことに多し。
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蝦夷のうちシリキシナイなどいへる所 (茅部国広尾郡) よりサルなどいへる所 (日高国沙流郡) 迄の夷人は悉く作る事なり。
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これを糧食に供する事も、尋常の魚鳥の肉等に比すべきものにはあらずといひて、其尊び重んずる事甚厚し。
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同上, p.557
是 [ラタネ] 亦國のひらけたる初め火の神降り給ひて、アユウシアマゝと同じく傳へ給ひしよし言ひ傳へて、殊の外に尊み蝦夷のうち何れの地にても作りて糧食の助けとなす事なり。
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但、極北の地ネモロ、クナシリ島等の夷人作る事のなきは、アユウシアマゝに論じたると同じき故としるべし。
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高倉新一郎 (1937), pp.227,228
和人との接触によってアイヌの耕作する作物の種類も次第に増加してきたことは当然で、‥‥
これらの種子はマーメ(豆)とか、アンズキ(小豆)とか、アサカラ(麻)とか、エモ(馬鈴薯)、ムンギ(小麦) 等といった和名をそのまま、または訛って呼んでいるものは、もちろん彼等によれば、彼等の最も尊重する粟、稗を除く外は日本人から渡ったものであることを伝えている。
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- 引用文献
- 村上島之允 (1809) :『蝦夷生計図説』
- 高倉新一郎 (1937) :「アイヌの農業」, 日本農業経済学会『農業経済研究』第9巻2号, 1937
- 高倉新一郎『アイヌ研究』, 北海道大学生活協同組合, 1966, pp.219-249
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