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高倉新一郎 (1974 ), pp.99-102
アイヌは漁猟民族だといわれているが、全部が自然に依存していたわけではなく、暖かい地方や漁猟だけでは充分な生活資料を得られない所では、ごく原始的なものではあるが農業を営んでいた。
すなわち、川の中洲などで、比較的肥沃であり、野生の植物があまり繁茂していない所を選び、山刀などで灌木を切り払い鎌で草を刈って、量の多い時は集めて焼き、そうでない時は縁に積み重ねて空地を作り、鎌や鹿角または木の枝などで作った鶴嘴、もしくは鎌を根本から直角に折り曲げて造った手鍬で、地表にきずをつけ、もしくは足などで筋をつけて種子をまいた。
または種子を播いた後でこれを行い、覆土に代えた。
種子は粟・稗・豆・ラタネと呼ぶ一種の菜などである。
肥料ことに糞尿は神を汚すものだとして施さない。
ただ播種にあたって種子を小鳥の卵などに浸すことがあるが、これは豊作を祈る呪術である。
草木を焼いた灰なども、焼き畑のように肥料にするという意識はなく、ただ邪魔物を除くために使ったにすぎない。
畦もつくらねば、除草・間引きなどもしない。
まきつけが終わるとそのまま放置しておくのである。
そして作物が自然に発芽・成長・成熟するのをまって収穫する。
雑草におおわれてどこが畑かわからないので、石を投げ、雀の飛び立つのを見てそれと知ったといわれている。
もっとも鹿などの野獣が多く、畑を荒らす所では、周囲に柵を立ててこれを防いだ。
粟・稗の収穫には、川貝の縁を研いでするどくしたものの根元に穴をあけて紐を通し二本指の入るくらいの輸をつくり、それに貝の中を外にして中指と薬指を通し、貝の刃と親指の根元のフクラとの間に穂をはさみ一本一本切り取り、サラニップと呼ぶコダシ(負い袋) の中に入れた。
根元から鎌を入れて刈るのではなかった。
実が落ちやすく、耕作法が原始的なためにその成熟が一本ごとに違うので、その意味では合理的な収穫法であった。
収穫した穂は炉の上などでよく乾燥させサラニップに入れて倉の中に貯蔵し、使用するごとに取り出して臼で搗き、木製の箕で仕分けをした。
臼はコップのような形をし、杵は竪杵だった。
ラ夕ネは葉よりもむしろ蕪のような根を食べたので、野生のウバユリなどを掘るのに使った木鋤もしくは先のとがった棒で掘って土にいけてたくわえ、随時取り出して用いた。
種子は、収穫時に、特別なものを選び出し別に保存した。
‥‥要するに漁猟の片手間に行なったもので、方法は原始的といわれる焼き畑農業よりもっと原始的なものであった。
従って土地が荒れて畑として適しなくなるとすててまた別の場所を選んだ。
ために土地は使用している時だけ他人が侵すことができなかったが、捨てられると誰が使ってもよかった。
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Batchelor (1927), pp.68-70
ペンリ老人が耕している畑というのはほんの僅かな地面で、そこには何本かのタバコの苗が植えであったが、老人は自分がタバコを吸うために次々と葉をむしるので苗は半ば枯れていた。
春の繁忙期になると、女たちは寝床から起き出して僅かな時間に冷えた野菜汁を急いですすり、農具を肩にして出かけ、畑の土を起こしてそこに種を蒔く。
夕暮れになると大きな薪の束を背負って家に戻る。
‥‥
‥‥ 家から遠く離れた所に畑がある場合には、士起こしから種まきが終わるまでそこに小さな仮小屋を建てて、そこで寝泊まりをすることも多かったようである。
‥‥‥
夏になると、‥‥ 炎天下に畑の草取りをしなければならなかった。
秋がめぐって来るとすぐ、急いで黍をとり入れ、豆を収穫し、蕪や人参を土から抜きとり、じゃが芋も掘らねばならなかった。
黍の収穫の仕方は大変簡単であった。
これには、貝殻や石を用いていた昔が偲ばれるような道具を用いていた。
小さな貝殻で黍の穂先の実の部分を摘みとりながら畝の間を歩いて行けばよかった。
茎の部分はそのままにしておいた。
‥‥
人びとの間にはとり立てていう程の農具はなかった。
畑には特に肥料を入れることもなかった。
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引用文献
- Batchelor, John (1927) : Ainu Life And Lore ─ Echoes of A Departing Race
Kyobunkwan (教文館), 1927.
小松哲郎 訳『アイヌの暮らしと伝承──よみがえる木霊』,北海道出版企画センター, 1999.
- 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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