つぎは,時代が降って明治30年代頃の話:
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砂沢クラ (1983), p.13
夏の山猟は、七月の初めから八月いっぱいまで、
イチャニウ(マス) やチライ(イトウ) などの川魚や
トゥレップ(ウバユリ)、チマキナ(ウド)、キトピロ(ギョウジャニンニク)などの山の野菜を食べながら
山に寝泊まりし、
カワウソを捕り、
行き会えばムジナ、クマ、シカなどのけものもとります。
山へ持って行くのは、
米一斗(約一五キロ)と塩、みそ。
米や肉を炊いたり、オハウ(汁)を作るアカガネのなべ、マッチ。
着替えの着物、丹前、毛布。
魚を取るマレック(ヤス) の金具と
カワウソを捕るトラバサミを二、三丁、
鉄砲のタマも持って行かなくてはなりません。
こうした持ち物全部をシケニ(背負い子)にくくりつけ、キムンタラと呼ぶ山猟用の丈夫な綱で、額で支えるような格好で背負います。
肩ではなく額で荷を負うと、頭をひと振りすると荷を捨てて身軽になれるので、素早い行動が必要な山猟では、とても便利なのです。
手には、キムンクワという上の部分が二またになった山歩き用の長いつえを必ず持ちます。
地面に当たる部分は削ってとがらしておき、休む時には地面に突き刺して鉄砲や荷をかけたり、クマに出会うなど危険な目に遭った時には武器にもします。
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同上, pp.19-21
確か、私が六歳の夏 (明治三十六 [1903] 年) だった、と思います。
この年の夏の山猟は、私たち親子のほか、おじやおば、その子供たちなど親せき十五人で愛別の山に入りました。
父は私を、母は前の年の二月に生まれた妹のカネをおぶり、父の二人の弟のケトンジナイアザボ、マカンザッシアザボも夫婦で、それぞれ小さな子供をおぶっていました。
子連れでなかった父のいとこのコソンカアイヌと、その弟のポロクエエカシが先に立ち、残りの者は一団となって山を登りました。
愛別の山頂に着くと、先に行った二人が立てたイタックペ (道標) が立っていました。
イタックペは、木の枝で作る矢印で、長さ五十センチほどの木の枝の片側をとがらせ、それを背の高さほどの木の上部を割って差し込み、よく目につくところに立てるのです。
そのイタックペは、ソコツ (渚滑) の沢へ下りる道を指していました。
沢のかみから少し下ると、岩の上に大きな雪の山のようなものがあり、驚きました。
温泉がわいていたのです。
おじやおばたちは、温泉のそばに小屋をかけて猟をするというので、私たち親子は、さらにソコツの沢を下って、ボンムカ川に入り、ここで魚を捕ったり、カワウソ猟をすることにしました。
父は、この川でマスをたくさん捕りました。
小さい時から弓矢を扱うのが上手で、クウカルク (弓を作るのも扱うのもうまい人) と名付けられたほどでしたから、マレツク (ヤス) でも鉄砲でも、なんでも物をねらって当てるのがうまいのです。
カワウソも一匹捕りました。
このカワウソの脳みそは、私が食べました。
父が「カワウソの脳みそを食べると頭がよくなる」と言って食べさせてくれたのです。
動物の脳みそは、カワウソだけでなく、クマでもリスでも何でも食べます。
頭の後ろに骨の軟らかい部分があるので、そこを割って脳みそを取り出します。
生のまま塩をかけて食べたり、煮て食べますが、栄養もあり、とてもおいしいのです。
川のまわりにはクマの足跡がたくさんあったので、父はカワウソのわなをかけに行く時には、いつも鉄砲を持って行っていました。
ところが、何日たってもクマの姿を見かけないので、ある日、父は鉄砲を置いて出かけました。
この時、母は何度も「持って行ったほうがいい」と言ったそうです。
しばらくして、父が青い顔をして帰ってきました。
「クマ三頭を捕りそこなった」と言うのです。
カワウソのわなをかけていると、二歳子の子グマ二頭を連れた母グマが現れ、父の姿を見ると、母グマは川を渡って逃げようとしたのに、子グマがついて来ないので、川の真ん中にじっと立ち止まって待っていたそうです。
「鉄砲があれば捕れたのに。お前の一言うことを聞けばよかった」と父はくやしそうでした。
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引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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