つぎは,時代が降って明治30年代頃の話:
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砂沢クラ (1983), pp.10,11
私が、まだ小さかった四歳の夏 (明治三十四 [1901] 年) のことです。
私は母におぶわれ、父に連れられて、旭川からヌタップカムイシリ (神の山=大雪山) を越え、佐呂間の猟場をめざして歩いていました。
この時、父クウカルクは二十五歳、母ムイサシマットは、まだ、二十歳でした。
佐呂間峠を登っている途中でした。
父が、「どこかでエベレ(クマ)の泣き声がする」と言って、背の荷物を投げ捨て、山の上の方へ走って行きました。
私と母は、道路 [「北見道路」] わきの草わらの中の溝に隠れました。
「ドォーン」と村田銃がなり、父が大声で呼ぶので行ってみると、まだ若いクマが死んでいました。
母グマは逃げ、この二歳子が木に登って泣きわめいているところを父が撃ったのだそうです。
クマの泣き声は父だけが聞き、私も母も聞きませんでした。
‥‥
それから、近くの沢に降り、フキの葉でふいた仮小屋を作り、クマの肉を炊きました。
とてもおいしい肉で、私はおなかいっぱい食べました。
夜になると、私は逃げた母グマが戻ってくるような気がして恐ろしくなり、泣き出ました。
父と母は「泣くな。私たちは大きな火をたいているから心配はない」と、何度も何度も言って、炉の火をどんどんだいてくれました。
私は、夜空が明るくなったころ、やっと眠りにつきました。
翌日からは、この仮小屋に子グマを祭って、カワウソ猟をすることになりました。
クマの肉は、母が干し肉にするため、大きな塊のままさっと湯にくぐらせ、それを二、三センチの厚さに切って、炉の上に張ったひもにかけてゆきます。
こうすると、味もよくなるうえ長持ちし、軽くなるので背負って帰るのも楽なのです。
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引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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