Up 鹿猟 作成: 2018-12-21
更新: 2020-02-03


      高倉新一郎 (1974 ), pp.75,76
    アイヌの食糧として大事なのは鹿であった。
    鹿は北海道に数多く生息し、主として疎林の中に群をなし、冬になると、雪のすくなく比較的暖かい胆振・日高・十勝などに集まって越冬した。
    アイヌはこれらを仕掛け弓や毒矢で射てとったがまた大勢で、犬の助けをかり散在する鹿群を遠巻きにし、しだいに輪をせばめ、これを断崖から追い落とし、傷ついた鹿を叩き殺し、また移動する時、渡河点を選んで、川中で混乱するところを捕えたり、鹿の多い場所に木材で鹿の追い込み場をつくり、これに追い込んで捕えたりした。
    また掌大の三角形の木で作り振動で音を発する部分に子鹿または魚の皮などを張った鹿笛を吹きならし、夫を恋う鹿や親を求める子鹿の擬音を出して鹿を集めた。

      串原正峯 (1793), p.504
    西蝦東地イシカリ川の南の山に住む鹿は秋八、九月の頃イシカリ川を渡りて東蝦夷地シコツ((支笏))といふ所の山へ行。
    是は西地は雲深く食物なきゆへ、東地の方へ移るなり。
    其時夷とも船に乗、イシカリ川の川端笹草など生ひ繁りたる下へ船を着、
    川岸より川中へ横に柱を三本程さしかけ、夫へ葭簀(よしず)を掛、其下へ船を入れ、隠れて侍居れば、
    鹿川へ飛込て向へ渡る所を、船を乗出し川中にて追付打殺すなり。
    熊渡る時は構わす、若川中にて熊に向へば忽船を覆さるゝなり。
    右シコツえ渡りたる鹿、春になれば又川を渉りて元の場所へ歸る事なり。
    しかし近年鹿を段々捉盡し、残りたる鹿東蝦夷地より海を越して南部地へ逃去たりとて、今は蝦夷地も鹿甚少く成たりといへり。

      高倉新一郎 (1936), pp.170,171
    ‥‥ 美々地方は鹿の越冬場として有名で、冬になると西蝦夷地の鹿は石狩川を渡ってここに集まり、春になるとまた北に向って散って行くので、土人はこの川を越える鹿を待ち伏せてこれを獲た ‥‥


      山田秀三 (1969), pp.167,168
    [ ユックチカウシ : Yuk-kut-ika-ush-i,
      (狩りたてられて) 鹿が・断崖を・こぼれ落ちる・(動作のくりかえし)・処 ]
    平取街道の西側の山は、鹿の多い処であったらしい。
    松浦武四郎の未刊の毛筆本『左留日誌』(沙流川筋の紀行文) には、
     「 サント。左りの方、小山。
    この山、鹿多くして、鹿を追い行くや、海の浪の如く飛びはぬるによって(なず)くるとかや」
    と書いてある。
    サントの原音はサンド san-tu で、沙流川本流とエソロカンの沢に挟まれた長い尾根の名であった ‥‥
     鹿の通り路だったらしいそのサントゥの、根もとの辺りに、ユックチカウシの鹿落しの崖があった ‥‥



    引用文献
    • 串原正峯 (1793) :『夷諺俗話』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.485-520.
    • 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
    • 高倉新一郎 (1936) :「アイヌの漁猟権について」,『社会経済史学』第6巻6・7号, 1936
      • 高倉新一郎『アイヌ研究』, 北海道大学生活協同組合, 1966, pp.163-217
    • 山田秀三 (1969) :「ユックチカウシ物語」,『北海道の文化』, 17, 1969, 9月
      • 『山田秀三著作集 アイヌ語地名の研究 1』(「狩猟のアイヌ地名を尋ねて」に改題), 草風館, 1995, pp.163-169.