但し,村上島之允のいう「當れハたち處に斃る」は,つぎの話の内容と反する:
|
砂沢クラ (1983), pp.22,23
ソコツの沢を登って行くと、私たちが "小さいおばさん" と呼んでいたポロクエエカシの妹コピカントツクが、走って私たちを迎えに来ました。
「小きいおじさんがアマッポ(クマの仕掛け弓)にかかった」と泣きながら言うと、また走って戻って行きました。
小さいおじさんとは、父の末の弟マカンザッシアザボのことで、とても頭のいい利口な人でした。
まだ、二十一歳なのに和人の一言葉もよく覚え、何をさせても上手でした。
そんな人が、どうしてアマッポなんかにかかったのでしょう。
私たちが小屋に着くと、小さいおじさんは、身の置き場がないように、ころげ回って苦しんでいました。
ポロクエエカシの話では、おじさんは、エカシたちがかけたアマッポを見に行くといって、エカシたちが止めるのを振り切って走って行ったそうです。
クマの仕掛けをかけた沢には、かけた本人しか入ってはいけないことになっているのに。
心配していると、小きいおじさんはアマッポの毒矢を足にきしたまま走って戻ってきたそうです。
矢が骨まできさっていて、自分では抜けなかったのです。
矢には、沙流 (日高地方) の人から分けてもらった猛毒が塗り込めてありました。
スルクウ (トリカブトの根) とウォロップという川に住む虫を混ぜて作った毒で「どんなに大きなエベレ (クマ) でも死ぬ」と言われていたものでした。
ポロクエエカシがマキリ (小万) で肉を切り開き、骨にささっていた矢じりを取り出して、
傷口から血を吸い出したのですが、血を口に含んだだけで、舌がしびれた、ということです。
それから、毎日毎日、草の根をせんじて薬を作り、矢傷の手当てをしました。
いっときはよくなって、意識もはっきりし「ボクが悪かった」などと話せるようになったのですが、また、眠り込んでしまい、それから体が人間とは思えないほど二倍にも三倍にもはれあがって、とう息が切れました。
|
|
引用文献
- 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
- 『菅江真澄集 第4』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.493-586.
- 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
- 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
- 砂沢クラ, 『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
参考Webサイト
|