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Batchelor (1927), pp.78-82
この島にアイヌだけが住んでいた輝かしい全盛の時代には、食料は豊かで容易に手に入れることが出来た。
この時期、人びとは幸せで満ち足りた生活を送っていた。
五十年前に私がこの地を初めて訪れた時でさえも、食料が足りないという声が聞かれる地域は未だ僅かであった。
季節がやって来ると、鮭が群れを成して川を溯上して来た。
その数はおびただしく、所によってはその魚体を押し合いながら上るので、流れからはみ出されて川岸に跳ね上がる鮭がいる程であった。
それと併せてカワウソ(獺)や熊も幾らでも獲れる、まことに豊かな時代であった。
人びとは川に網を仕掛けたり、ヤスで突き刺したりして鮭を捕らえていたが、時には水面を泳いでいる鮭を棒で叩いて仕留めることも出来た。
また何匹かの犬を川の中に泳がせ、鮭の群れをとり巻いて川岸まで追い上げさせて捕らえることことわざもあった。
鮭を獲る季節は短く、イギリスの諺の「日の照るうちに草を干せ」どおり、ごく短期間の勝負であった。
この時期に、獲った鮭を家屋内の梁にびっしりと吊して燻製にした。
また屋外には、竿を横にわたした干し場が幾つも建てられ、そこでも身を裂いて開いた大きな鮭が所せましとばかり天日で干されていた。
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ニシン(鰊)、イワシ(鰯)、タラ(鱈)、その他大小の魚類が沿岸では豊富に獲れたし、大きなカニ(蟹)や様々な貝類も幾らでも採ることが出来た。
当時、私は大型のカニを六ペンスで手に入れることが出来たが、今ではその八倍の四シリングの値がつけられている。
湖沼でも活きの良い淡水魚が沢山獲れた。
この輝ける日々には、食料の不足をかこつことなど有り得なかった。
アザラシ(海豹)、セイウチ(海馬)、イルカ(海豚)、メカジキ(目旗魚)、ゴンドウクジラ(巨頭鯨)、カツオ(鰹)なども、この沿岸では豊富に獲れたし、時には大きなクジラ(鯨)が浜辺に打ち上げられることもあった。
この穏やかな時代には、誰が何と言おうとも、アイヌは食べ物には満ち足りていたのである。
今なお人びとは、古き良き時代を懐かしみ、何とか再びこの日々の一戻ることを切実な気持ちで待っている。
北海道の沿岸ではオットセイ(膃肭臍) はもうほとんどその姿を見ることが無くなってしまったが、以前には北方の海域には多く住み、毎年のように繁殖の地であるシベリアの海へ'向かう途中、群れをなしてハコダテの沿岸や噴火湾を泳ぎながら通過していたのである。
アイヌはこのオットセイを沢山捕らえて交易用の毛皮にしたり、また自分たちの柔らかくて着やすい衣料とし、その肉は食料にした。
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陸地での生き物は、北海道には沢山の動物がいて肉類も豊富である。
ヒグマ(羆)の肉、鹿の肉、その他タヌキ(狸)、キツネ(狐)及び野兎も多くいるので食料に不自由することはなかった。
すべてこれらの毛皮は、和人やマンチューリアン(満洲人)との交易品とされ、その見返りの品として、ウルシ(漆)塗の器、陶磁器、鉄鍋類、衣料用品、綿布、古い万剣類、マンチューリアの上着(蝦夷錦)、耳飾り、ガラスきせる玉などであった。
従って、マンチユーリアの煙管や、腕輪や古銭を装飾用にしているのをふと見かけることがある。
これらの品はすべて米や酒の場合と同じように、鮭や鹿の角や獣の毛皮と交換して得たものであった。
狩で獲った獣の肉だけでなく、ここには沢山のカモ(鴨)、ガン(雁)、ハクチョウ(白鳥)、エゾライチョウ(蝦夷雷鳥)、ヤマシギ(山鷸) などの野鳥もいた。
この野鳥も立派な食料となった。
この地の人びとは、何不自由無く豊かに暮らしていた。
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このような自然環境の中にいれば、アイヌは飢饉の時を除けば食料に困るということは決して無かったことが容易に理解出来よう。
大きくて立派な鮭は一匹一シリング(十二ペンス)で手に入った。
鱒は四ペンス、野ウサギは三ペンス、蝦夷ライチョウ一羽二ペンス、米が一袋二シリングの頃であった。
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引用文献
- Batchelor, John (1927) : Ainu Life And Lore ─ Echoes of A Departing Race
Kyobunkwan (教文館), 1927.
小松哲郎 訳『アイヌの暮らしと伝承──よみがえる木霊』,北海道出版企画センター, 1999.
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