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高倉新一郎 (1974), p.138
松前人は、単にアイヌの来訪を待つばかりではなく、進んでアイヌの居所に行って交易を行なった。
しかしこれは誰でも行ない得たわけではなく、松前藩の許可を必要とした。
藩は許可料を徴したが、後これを家臣に分与した。
家臣は藩主に代わって蝦夷地に行き、交易をして帰って来た。
松前ではこの交易のことをカイホウ (介抱) といった。
アイヌに不足の品を与えて、その生活を保障するという意味である。
その際藩士は藩主と同様、儀式をもってアイヌの首長と交歓し、後に交易を行ない、交易が終わると松前に帰った。
この交歓の儀式をオムシヤと呼んだ。
オムシヤとは、アイヌ語のウムサ、久し振りで会った人のする挨拶である。
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高倉新一郎 (1966), pp.47-49
毎年春になると、諸国から蝦夷目当の交易品を積んで商舶が城下に集まって来る。
藩及び藩士はこれらの品物を買集める船を用意し、舶の出入りを取締る沖口役所の許可を受けて各目的地に向って出航する。
船には船頭・船子の外に蝦夷交易を指揮監督する者が一人、藩船では藩士が二人程上乗役として乗込む。
それに両者の意思を疎通する通詞その他が乗込んで行く。
目的地に着くと、用意をして、監督が中心になってオムシャを行い、蝦夷を集める。
蝦夷は貯えた産物もしくは獲た土産を持って来て交換を行う。
交易は全く物々交換であるが、交換比率は米で決められていた。
交易は最初船中又は海浜などで行われていたかも知れない。
宝暦八年(一七五八) に書かれた「津軽紀聞」によれば、交易船が入ると蝦夷が我先にと船に乗移って、船中のものを争って探し喰うので、地黄煎を用意して行ったところ,甘いので喰べている中に髭について困った。
そこでよく諭して、湯で洗い落してやったところ、それから悪戯をしなくなった、とか、蝦夷の品物を受取る時、船中の危い所に板を渡し、その上に品物を並べさせ、数えて数を覚えているところを驚ろかせ、立腹するところをなだめて再び数えさすと、前の数を忘れて、その分だけ得になるとか書いてある。
しかし、交易がやや長期にわたると、運上屋と呼ぶ交易所が設立され、交易はそこで常時行われるようになった。
蝦夷の交易品を見ると、鮭・鰊・鱒・鱈・串貝・昆布・えぶりこ等のように、比較的豊富に存在していて、漁獲法の改良や拡大によって増加し得るものと、白鳥・鶴・鷹・熊・鹿・鯨・海獣・駕羽等のように大量生産を望めないものとがある。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1966) :『蝦夷地』, 至文堂, 1966.
- 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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