Up 会所元に住み着く者の増加 作成: 2018-12-24
更新: 2019-02-01


      高倉新一郎 (1939), pp.142,143
    この時期 [松前藩独立後] に至って、和人は松前城下を根拠とし、蝦夷地の海岸各地に出張所を設け、アイヌと物々交換を行なってその生産物を蒐め、後にはアイヌを使役して漁場を経営するに至った。
    従来アイヌは特殊の地方 (内浦湾、厚岸湾など) を除き、海岸に居住する者はすくなく、多くは季節的出稼ぎに止まり、本村は川辺にあった‥‥が、和人の出張所を設けた箇所は、(一) 船付のいい海岸で (二) アイヌの多く集まる所であった。
    しかしこれらの取引きが全くアイヌが自然に採取したものを蒐集するに止まっていた時代には、取引がすめば蒐まったアイヌは解散させても差支えはなかったが、
    取引が常住化し、和人の滞在が長くなり、進んでは、アイヌの技術による生産物ではあきたらず、漁具を改良して大規模な海岸漁猟に従事し、その労力をアイヌに仰ぐようになると、
    これらのアイヌを手元に近く常住せしむる必要が生じ、
    アイヌもまた、和人に使役されて得られる手当によって年中生活を保証せられると、和人の出張所を中心として永住しても差支えはないのであった。

      同上, pp.143-146
    安政三年に書かれた松浦武四郎の「囘浦日記」は当時のアイヌ部落の状況を最も詳細に記述したものであるが、これによって、比較的和人の影響を蒙ることのすくなかったと思われる北見・十勝・日高の各地方の川沿のコタンを調べてみると、四戸乃至十戸より成るものが大部分を占めており、十三戸以上は極めて稀で、ヒラトリの二十八戸を最高とし、二十戸以上を数えるものは五カ村・そのうち運上屋が置かれていた千歳を除くと、他の四カ村はことごとく沙流川筋にあるものである。
    しかもこれらは、和人の支配が本格的に及び始めた寛政年間においては更に小さな部落であったのである。

    [沙流川筋アイヌ部落の戸数]
    地 名1809年1859年
    サルフト1513
    ヒラカ2525
    シュムンコツ617
    チエッホッナイ10
    ニナ2516
    ビラトリ1728
    ニヒタニ1125
    ビバウシ10
    カンカネ224
    ベナコリ13
    ニオエ5
    ヌプキベツ88
    モビラ8
    ヲサツナイ
    ホロケソマフ7
    ホロサル517
    イケウレリ6

    しかるに海岸においては大部落が頗る多く、時として百戸に達するものがあるが、その多くは会所元である。 すなわち和人の交易所 (運上屋・会所) のあった所である。
    いま松浦武四郎「囘浦日記」に現われた二十戸以上の部落を挙げれば次の通りである。(沙流川筋を除く)
    北見国モンヘツ二十九軒 (会所元)
    シャリ三十 軒 (会所元)
    根室国シヘツ二十五軒 
    釧路国クスリ八十一軒 (会所元)
    十勝国ヒロウ四十五軒 (会所元)
    日高国シビチャリ三十六軒 (会所元)
    カバリ二十一軒 (会所元)
    謄振国チトセ二十四軒 (会所元)
    シラオヒ三十七軒 (会所元)
    シキウ三十七軒 
    ホロベツ五十二軒 (会所元)
    内浦湾沿岸 モロラン三十一軒 (会所元)
    ウス九十六軒 (会所元)
    アブタ六十五軒 (会所元)
    フレナイ二十九軒 (会所元)
    ベンベ二十二軒 
    レフンギ二十八軒 
    ヲシャマンベ 四十四軒 (会所元)
    ヤムクシナイ三十七軒 (会所元)
    ヲトシベ三十三軒 


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1939) :「アイヌ部落の変遷」, 日本社会学会『社会学年報』, 1939
      • 高倉新一郎『アイヌ研究』, 北海道大学生活協同組合, 1966., pp.129-162