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高倉新一郎 (1974 ), pp.79-82
鮭はアイヌにとって重要な食料であり、秋になると部落総出で大量にこれをとり、干し魚にしてたくわえた。
鮭の豊凶はアイヌの生死にかかわる大問題であり、これをカムイチェップ (神魚) もしくはシエペ (最上の食糧) と呼んで大切にした。
アイヌの鮭漁には種々の方法があり、所によって異なっていたが、大別すると網漁と簗漁、それに鉤漁があった。
‥‥
アイヌはとった鮭を種々に料理し、棚にかけて自然乾燥させ、もしくは火棚に吊るしてくん製にしてたくわえた。
‥‥
腹をさいて丸干しにしたものをカラサケ (から鮭) といい、種々のものと交換され古くから北陸地方の庶民の食料に移出され、蝦夷地の名産の一つだった。
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高倉新一郎 (1936), pp.169,170
‥‥ 蝦夷地に商業資本の勢力が次第に強くなって、能率の低い従来のアイヌの生産法では飽き足らず、アイヌを使役して大規模な漁業を行なうようになると、アイヌの従来の漁業権を侵害せざるを得なかったと思われ、
寛文乱の原因の一つとして、植民者が尻深川 (いまの堀株川) の鮭を勝手にとった事かその地のアイヌが
「松前より御越侯て拙者共取候川にて大網おろし鮭すきと御取上‥‥」
といって不平をのべている。
しかし多くの場合、
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川上の鮭漁はアイヌに一任し、その生産物を買うに止まり、
ただ川口もしくは、アイヌがその生産用具をもってしては利用し得ないために放任されていた漁場を、植民者の漁場として、進んだ漁具を入れ、自らアイヌを雇って漁業を行なうか、もしくはアイヌに網を貸与して行なわせた
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ために、大事は起らなかったと思われる。
川上の鮭漁をアイヌに一任して置いたことは、
[和人地の場合] 前に引用した「松前随商録」の記事
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「 |
ケンニチ、此所川有、鮭の秋味の分は蝦夷の乙名へ被二下置一候。但し川江上り候分斗被二下置一候」
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「 |
アイノマ川はチホロカイと言蝦夷に被二下置一候」
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「 |
サッカリ蝦夷の乙名江被二下置一候秋味場所也」]
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でも明かであるが、
これが蝦夷地にも行なわれていたことは、「蝦夷情実」に
「 |
川之内に従レ其上は蝦夷飯料場と申所有レ之、
其処の漁物尚又其外小川々々沢山有レ之、
少しの流にても鮭鱒之類登り候間、右等之分は蝦夷飯料となるよし、
此分は蝦夷共勝手に漁事致し候趣、此品交易なり」
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といっているのでもわかり、
特殊の網を用いて開いた場所は、他の者が故障をいう筋合でなかったことは、「土人由来記」に
「 |
引網の初りは元ヒホク(新冠) より相初り、尤クゴ糸にて拵候小網引立候処、可成の漁事有レ之、
其近辺にて右網拵方相習候て網仕立、
夫よりイシカリ川口も当所 (千歳) 網一統放し、右大川にて引立候処、相応に漁事有レ之、
至て弁利宜敷候故、またユウフツ領にても追々相仕立、イシカリ大川持下り漁事致候へとも、
右網はユウフツより相初り候事故、イシカリ土人共方にて聊故障無レ之」
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と弁じている。
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引用文献
- 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
- 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
- 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
- 高倉新一郎 (1936) :「アイヌの漁猟権について」,『社会経済史学』第6巻6・7号, 1936
- 高倉新一郎『アイヌ研究』, 北海道大学生活協同組合, 1966, pp.163-217
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