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菅江真澄 (1791), pp.548-550.
此ウネヲてふものは頭は猫に似て、身(むくろ)は獺(をそ)にことならぬ獣也。
もろこし人は膃肭といふものの、それが臍といへどしからず、まことは、それが雄元(たけり)をとりて薬とはせり。
(図は,村上島之允 (1800) から引用)
ウネヲは、かんな月の寒さを待得て、冬の鯡(にしん)の集(すだ)くをくはんと追ひあさるを、蝦夷舟こゝら、このコタンより乗出て、突きてんとねらひありけど、
冬の海のならはしとて、いつも浪あれ風はげしければ、アヰノら挙て平波(なぎ)あらん事をいのり、斎醼とて神にみわ(酒)奉り、をのれらも酔ひ、かく祈禱して、
あら浪のうちなごむしるしをうれば、海はいづらにかウネヲのあらんと狐の頭を、をのれをのれがかうべにいたゞき ‥‥ そとふりおとして、そのシユマリのシヤバの口の向たらん方に、ウネヲのあるてふ神占して、
それをしるべに十余里の沖に、あまたの船をはるばるとこぎ出るに、たがはずウネヲは、あをうなばらの潮と浪とを枕に寐るといふ ‥‥
それが寝るに、そのかたちしなじな(品々)也。
ヨコモップといふは片鰭にて、ふたつの足をとりおさへて、左のテツヒをぱ海にさしおろし、汐をかいやりてふしぬ。
これには、投鋒いと撃やすし。
テキシカマオマレとて、片鰭をば水にさし入れ、右のテツヒを腰にさしあてて、シヤバのなからばかり潮にひぢて寝たり。
チヨロボツケとは、かたテツヒを水に入れて、さし出したるふたつの脚を、かたテツヒしておさへたり。
カヰコシケルといふは左のテツヒを水に入れ、右のテツピを上にさLげて、身をふるはして寝たり。
セタボツケといふは犬の寝(ふ)したる姿にことならず。
かゝるなかにも、テキシカマオマレといふが耳のいとはやき宿(ね)やうなれば、いつも、これを突もらすと、蝦夷の物話にせり。
ウネヲの牝をポンマップといひ、牡をデタルウネヲといへど、寤寐たるすがたは牝牡ともにことならず。
ウネヲの漁にとて男の沖に出れば ‥‥ 女はゆめ鍼も把らず木布も織らず、飯もかしがず手もあらはず、たゞふしにふしてのみぞありける。
其ゆへは、オツカヒ漁に出てハナリ(投げ銛)とりうちねらふに、そのアヰノの家に在るへカチにてまれ、メノコにてまれ、家にせしとせし事のかぎりを、波に寝たるウネヲの、ふとめざめてそのまねをすれば、えつきもとゞめず、
手もむなしう、はらぐろにのゝしりこぎ皈(帰)り来て、けふはしかじかの事やありつらんと、そのせし事どもを掌をさすやうにとふに、家に、せしとせしわざの露もたがはねば、屋を守る人、をそれをのゝき、身じろぎもせずして、ふしてのみぞありける。
かゝればウネヲも、うなの上に能ふし、よくいねて、搏やるハナリのあたらずといふ事なけんと。
つとめてウネヲを漁りに出んといふとき、なにくれと其漁の具どもを南の窓より取出し、カンヂ,アリンベ,ウリンベ,マリツプやうのものとりそろへ□(扌+旁)出て、
海の幸もありてウネヲを捕得て皈来て,
其ウネヲをば船底に隠しおきて舟よりおりて、をのが家に入て、
ウネヲ撃たる事は露もそれともらさで,なにげなう,つねの物話をし,煙酒くゆらせなどして、
れいのごとく南の窓より、撃たるウネヲも、その漁の具も取ぐして入れ、
ウネヲをぱ厨下(うちには)に伏せて、臠刀もてウネヲの腹を割て胆を採りしぼりて、
舟の舳に、ウネヲの血ぬる斎祀あり。
ウネヲをさいたる小刀もて、ゆめ、こと魚を、さきつくることなけん。
十月のへロキにあさるウネヲより捕り始め、春の海に突めぐり、夏のはじめ卯月の海となりては、シャモの名に智加(ちか)といひ、アヰノこれをヌラヰといふ魚にあさるを取りて ‥‥、卯月の末にウネヲのレバの具をばとりをさめ、ひめおきて、こと漁にさらに用ざる、此コタンのならはし也。
ウネヲひとつとり得ても、米、酒、淡婆姑(たばこ)などの酬料を、それぞれにおほみつかさよりものたうばりけれぱ、此御恵のかしこさに、むくつけき、あら蝦夷人もこゝろなごやかにうち挙り、よろこびの涙磯輪にみちて、かゝる貢をば、をのれをのれが命にかへて、あら潮のからきうきめもいとはず、八重のしほぢをかいわけでとりて奉り、公にも、みつぎにそなへ奉り給ふといふ。
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引用文献
- 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175
- 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
- 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
- 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
- 『菅江真澄集 第4』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.493-586.
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