Up | "アイヌ" 類型学 : 要旨 | 作成: 2016-12-15 更新: 2016-12-20 |
混乱しているのは,「アイヌ」のことばを,人それぞれ自分勝手な意味をつけて,用いるためである。 そこで議論対象を明確にするため,ひとが使う「アイヌ」のことばの外延を,カテゴリー区分してきた:
集合 {アイヌ},{アイヌ系統者},{"アイヌ"} は,つぎの包含関係になる:
アイヌ系統者は,"アイヌ" になる・ならないで分かれる。 二つの違いは,「アイヌ系統」を自分の生きるモーメントにしようとするか・しないかの違いである。 「アイヌ系統」を自分の生きるモーメントにしない者は,《「アイヌ系統」は自分の生きるモーメントにはならない・不要》とする者である。 "アイヌ" になる者は,最初から,アイヌ系統者のごく僅かである。 さらに,はじめ "アイヌ" になった者も,"アイヌ" をやめていくようになる。 自分の生きるモーメントに「アイヌ系統」を措くことが,無用・無意味に見えてくるからである。 しかし,"アイヌ" は,自分を「アイヌの一人」に見なす者である。 彼らが己を語るときは,「自分はアイヌの一人として語っている」というふうになる。 「アイヌの一人」のことばは,「アイヌ集団」の存在を示唆する。 「アイヌの一人」のことばを用いる者は,この「アイヌ集団」に「アイヌ民族」の名を与える。 ひとは「アイヌ」を知らない者である。 そこで,"アイヌ" のいう「アイヌ民族」を,真に受ける。 "アイヌ" は,アイヌ系統者のうちのごく僅かな数に過ぎない。 しかしひとは,「アイヌ民族」のことばを受けて,アイヌ系統者がみな "アイヌ" のようでありそして「アイヌ民族」だ,と思ってしまう。 こうして, "アイヌ" は,小さくて曖昧な存在でありながら,ひとの幻想のうちで大きな存在になる。 "アイヌ" ──《「アイヌ系統」を自分の生きるモーメントにする》──は,多様な型 (面・相・形) を現す。 先ず,《「アイヌ」を装うことで,金を得る》がある。 これには,つぎの2タイプが立つ: (即物的な表現だが,科学用語は本質を直接言い当てることばがよい。) 「観光"アイヌ"」には,いわゆる「観光アイヌ」や,アイヌ文化講座講師の類が,これに当たる。 「物乞"アイヌ"」は,自らなるというものではなく,「アイヌ予算」要求型政治運動で必要になるポジションとして,これに就かされるというものである。 実際,「アイヌ協会」の一般会員になるということは,「物乞"アイヌ"」のポジションを引き受けるということである。 学術"アイヌ"。 アイヌ系統者であることを自分の強みにして,アイヌ研究を行う場合,あるいはさらにアイヌ学で身を立てようとする場合である。 学術"アイヌ" の名を挙げれば,知里真志保 (1909-1961),萱野茂 (1926-2006)。 思想"アイヌ"。 これは,自分のアイデンティティーとして「アイヌ」を立てようとするものである。 思想 "アイヌ" は,つぎの2タイプに分岐していく:
この分岐は,観光"アイヌ"・物乞"アイヌ" というアイヌ系統者の在り方に対する,立場の分岐である。 政治"アイヌ" にとって,観光"アイヌ"・物乞"アイヌ" は「"アイヌ" 一般」の形である。 政治"アイヌ" は,「"アイヌ" の生活向上」を運動するものである。 よって,政治"アイヌ" であるとは,観光"アイヌ"・物乞"アイヌ" の利益代表を務めるということである。 政治"アイヌ" の名を挙げれば,貝沢正 (1912-1992),野村義一 (1914-2008),結城庄司 (1938-1983)。 文学"アイヌ" にとって,観光"アイヌ",物乞"アイヌ" は,「これがアイヌだ」「アイヌはずっと虐げられ,困窮している」のウソをつく者である。 観光"アイヌ",物乞"アイヌ" を主導する政治"アイヌ" も,同罪である。 こうして,文学"アイヌ" は,観光"アイヌ"・物乞"アイヌ"・政治"アイヌ" を糾弾し,却ける。 文学"アイヌ" の名を挙げれば,違星北斗 (1901-1929),鳩沢佐美夫 (1935-1971),佐々木昌雄 (1943-)。 利権"アイヌ"。 政治"アイヌ" は,利権"アイヌ" に進化 (「堕落」) する。 観光"アイヌ" も,利権に付く方が有利であるから,利権"アイヌ" 化する。 物乞"アイヌ" は,その位置づけからして,最初から利権"アイヌ" である。 "アイヌ" のうち,文学"アイヌ" は早々に消えていく。 こうして,利権"アイヌ" が,"アイヌ" のすべてになる。 |