太田竜は,《怨念・憎悪から発した革命のみが革命》《革命は怨念・憎悪から発するのみ》という革命論をつくる者である。
ルサンチマンを肯定的に立てる理論の形はこれのみであるという理由から,太田竜に言及しておく。
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太田竜「地獄へ向っての旅」(1971)
太田竜『辺境最深部に向って退却せよ』収載, pp.5-32
p.6
マルクスのハレンチな偽善者・俗物ぶりは、同時代のアフリカの黒人奴隷革命者の視点から見れば、一目瞭然、何らの証明を要しない。
後者にとって、マルクスはその「公式」の「共産主義」的な表明と、失うべき多くのものを私有し、それに固執している、ありふれた西欧市民的俗物根性の二重帳簿において、直観される。
マルクス、すなわち1818年にドイツで生まれ、1883年に英国で死んだ、この一人の「共産主義者」は、彼の対極にある、数万人の、「無名」の、アフリカ、アジア、アメリカにおける植民地化された奴隷の同世代の革命者たちとの相互関係において見なければならない。
この両極において、本質的なもの、真に革命的なものは、問題なく後者にある。
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太田竜『アイヌ革命論』,1973.
p.63
「革命的な闘い」とは何だ。
それは報復だ。
奴隷の復讐だ。
抑圧された最下層の同胞の、具体的な反撃だ。
アイヌ同胞の復讐とは何か。
和人を殺し、この徒党を北海道から追放することだ。
とりわけで、北海道の革新勢力などと称している労働貴族の徒党を解体し、破滅することだ。
p.151
二風谷アイヌ文化資料館。
それは、初めて、アイヌがオノレの主体的責任のもとに管理運営するところのアイヌ文化のとりでとして誕生したのである。
生れたばかりのこのこどもが、一見、どんなに屈辱的にシャモ風の外見にまとわれていたとしても、この百年、シャモの学者たちの一方的な解剖材料となって来たすべてのアイヌ同族の復讐の怨念がそこに結晶しているのだ。
この赤ん坊は、日に日に大きくなって、アイヌ復権のシンボルとなるのだ。
このように、憎悪、怒り、そしておさえられた歓喜。この凝縮された矛盾のうちに、1972年6月22日 [資料館落成式の日] の二風谷は暮れたのである。
p.164
いま、私の心は、アイヌ同胞の内心の怨念と憎悪・報復の情に感応している。
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太田竜「アイヌの復活、和人の滅亡」,1971
太田竜『辺境最深部に向って退却せよ』収載, pp.192-209.
pp.200,201
小山妙子は、アイヌ風結婚式を行なう最後の女とは決してならないだろう。
私は思う。むしろ逆に、さらにすすんで、若い後継者がいなくて、まさに滅びようとしているアイヌの、いわば「シャーマン」、詩と、音楽と、踊りと、祭と、伝諦と、歴史と、復讐と、呪いと、これらすべての要素を一つに結びつける能力をもった女たち、「みこ」たちの登場が、いま準備されており、かっそれが待たれている、と。
小山妙子の方が主動的・能動的にこのたびの「式」をすすめ、貝沢三千治が彼女にむしろリードされた。このことは、きわめて喜ばしく、また、祝福さるべきである。
めんどりがあかつきを告げることがあるなら、国が滅亡する兆しであると、漢帝国の支配者とその継承者たちは言った。
このテーゼは、逆説的に正しい。
女が奴隷たることに甘んぜず、頑固にその「主体」を堅持しはじめるとき、搾取者の「国」は危うい。
なぜなら、「国」の基礎としての、女奴隷化の上に立つ「家」が解体しはじめるからである。
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