文学"アイヌ" は,つぎを説くことを自分の務めにした者である:
アイヌ系統者は,「アイヌ」ではない。
アイヌ系統者は,「アイヌ」であることを「シャモ」から強いられている。
アイヌ系統者は,意識において,この関係から自由になれ!
この務めは,進行しない。
袋小路に入って尻切れとなる。
なぜか。
この文学は,難しくて読めない。
そして,そもそも,意識が問題を解決することはない。──問題を解決するのは,いつも時間であり,そしてその「解決」の形は「問題の消滅──系の変化により問題が問題でなくなる」である。
文学は,政治に負ける
文学"アイヌ" は早々に消え,政治"アイヌ" がずっと残る。
なぜか。
ひとのわかることばの世界が,政治だからである。
佐々木昌雄 :「「アイヌ」なる状況」(2), 『亜鉛』, 第19号, 1973.6
『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.129-144.
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pp.140,141
この「帝国臣民」─「劣敗」─「保護」という図式 [74年前の帝国議会での質疑応答] は、そのまま「日本国民」─「並み」でない ─「福祉」を向上させる、という図式 [いまの国会での質疑応答] とぴったり重なりあう。
ことばは穏やかさを加えたように装われていても、その内に包まれている発想は変わっていない。
だから、まず云わなければならないのは、そういう発想への異議である。
「アイヌ」が求めているのは、「保護」だろうか?
あるいは「日本国民並み」の扱いだろうか?
個々の「アイヌ」を自称する者の胸の内は、それぞれまちまちであるわけだから、確かに「シャモ」が蔑すむように、卑屈な物腰で「保護」の一切にありつこうとする者もいる。
しかし、卑屈であるか、誇り高いか、などというところに問題があるのではない。
むしろ、遂に「保護」という枠でしか発想できない「日本」の返照が、「保護」を欲する「アイヌ」であり、ただ反転しただけの対応像であることに気づかない人々の感性の内にこそ問題が所在している。
そういう人々の中には、皮肉にも「民族の誇りを自ら放棄するな」などと「アイヌ」を叱咤激励する者たちもいるのである。
今、「アイヌ」が要求していることは、具体性に富んだ云い方だけを取り集めれば、一見、物取り主義者の要求のように見えるかも知れない。
けれども、一貫して底にあるのは、生活する者の想い──それを怨念と呼ぼうが、人間回復の希求と呼ぼうが、民族の復権と呼ぼうが──即ち、自らの生き様を奇妙な形に決定されてしまうことの拒否である。
p.144
「アイヌ」は、この「日本」から「自主性を与え」られなければならないような、脆弱な人間であるのだろうか。
「自主性を与える」というような感覚は即ち「保護」してやるという感覚と同一であり、結局は支配する者の感性である。
このような自らの感性に気づかない岡田春夫は、彼の所属する政党が今日まで「アイヌ」についてどう関わってきたかを省りみようとさえせずに、もっぱら政府批判をするのだが、まず社会党員としてそのことから調べ直すのが当然の政治活動ではないのだろうか。
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