Siebold, Heinrich (1854-1908)
原田信男他 訳注『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫597), 平凡社, 1996.
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pp.39, 40
身体の手入れに関しては、アイヌほどこのことに時間を費やさない民族は、まずいないだろう、と私は考えるようになってきた。
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全身を洗うことは、たとえば漁携を行なう時や、川を歩いて渡る時のような機会にしか起こらないらしいのである。
自分の身体を洗うことによって、きれいにしようとする心配りを、彼らは持ち合わぜていない。
その上、まったく同じように、衣服や道具をきれいにすることも必要がない、と考えている。
このため、煙で真っ黒になっているとか、他の何らかの理由で汚くなっていることが多く、たいていは見かけがとても宜しくない。
p.47
小屋の中では、すべての物が煙で黒くなっている。
そのことは別としても、全体がかなり不潔であるため、特に天気が悪く、すべての窓を筵で覆っている時には、小屋の中に居ることが非常に不快となる。
また、どんな温度でも構わずに滞在する「小さな跳ねる住民」のノミはいつもいるが、暖かい季節には、類が友を呼ぶように、蚊やヤスデなどの煩わしい虫も家につく。
しかし、(これらに非常に悩ませられる乳飲み子を別とすれば) 親切な母なる自然は、これらに対してアイヌをまったく無反応にさせてくれたようである。
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Batchelor, John (1854-1944)
The Ainu and Their Folk-Lore. 1901
安田一郎訳, 『アイヌの伝承と民俗』, 青土社, 1995.
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pp.117,118
住む上には、小屋はもっとも快適な場所ではない。というのは、われわれの考えによると、この人種では、家の快
適さは、まったく二次的に考慮すべき事柄だからである。もし人々が辛うじて生きられ、動物性の栄養物を手に入れ
ることができるならば、彼らは満足である。
彼らの村は遠方から見ると、実際まったく絵のように美しい。村は一般に川の土手に沿って存在している。
そしてある地域では、個々の小屋はこぎれいで、美しく見える建物である。
というのは、自分たちの家の屋根を葺くことに誇りをもりている人もいるからである。
しかし絵のような光景と美しさは、近づいてよく見ると、消え去る。
二、二一週か、二、三か月──二、二百か、二、二一分でも十分だと言う人もいる──それらの小屋の一つで過ごすと、日本の宿屋もそれに比べると、快適さの点では、天国のように思える。
小屋は頑丈に作られていないので、小屋を吹き抜ける風は、ときにランプかロウソクの光をともし続けることができないくらいの速きである。‥‥‥
アイヌの小屋は、冬には非常に寒い‥‥‥
さらに干物の魚──そのなかには腐って屋根からぶら下がっていたものもあった──は、おいしそうな匂いを出すやところでなかった。
煙もまた非常に迷惑なもので、日を刺激して、涙を流させた。
ある地方の小屋は、夏には、カブト虫、ハサミ虫、およびその他のいやな見虫で一杯である。
へビは、ネズミやツバメの巣を求めて、わら葺き屋根を訪れる。
ノミは昆虫のなかでもっとも厄介なもので、白人の血を特に好むらしい。
あるとき、私は朝起きたとき、私の体が刺し傷で一面に覆われているのを発見した。
しかし奇妙なことをいうが、その晩以降、ノミは私になんら跡を残すことができなかった。
アイヌの国を旅しようと思う人は、大量の殺虫剤をもって行くべきだ。
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これに対する近現代人のリアクションは,「アイヌ,すごい!」である。
「すごい!」の意味は,「自分にはまねできない,とても無理」である。
この「すごい!」は,リスペクトの感情の形である。
実際,アイヌを知っていくことは,アイヌをリスペクトするようになっていくことである。
一般に,異文化は,「すごい!」がこれに対するリアクションになる。
そして,これについての知識が深まるごとにリスペクトの気持ちが強くなる,というものである。
異文化の知識データベース作成を営みにしている学がある。
人類学である。
この営みは,目的を持っていることになる。
その目的は,つぎの実現である:
《異文化への対し方のレベルが,<納得>のレベルにまで至る》
「すごい!」でとどまっていてはつまらない,<納得>にまで行きたい,というわけである。
「アイヌ文化」学の方法論は,これである。
「アイヌ文化」学は,アイヌ文化に対する<納得>の形をつくることが仕事である。
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