アイヌのライフスタイルは,アイヌにとって完璧なものである。
アイヌにとって,これがライフスタイルの,理に適った形,過不足のない形である。
ヒト以外の動物のライフスタイルは,「機能的に過不足が無いライフスタイル」である。
アイヌのライフスタイルは,これに準ずるものであり,自然である。
翻って,近現代人のライフスタイルは,異常である。
「異常」の意味は,「過剰」である。
「過剰」へ進ませるものがあり,それは商品経済である。
商品経済では,<ライフスタイル>がバーチャルな存在になる。
バーチャルな<ライフスタイル>は,「足る」が無い。
ひとは,「過剰」の螺旋に嵌まっていく。
この「過剰」の螺旋に嵌まった体の者が,アイヌのライフスタイルを見る。
どんなリアクションになるか。
「劣悪」になるわけである。
ここで重要なことを,述べる。
「劣悪」の言には,リスペクトと蔑視の2つ──正反対の二つ──がある。
例えば,バチェラーが,つぎの書の中でアイヌのライフスタイルの「劣悪」を語るとき,この「劣悪」の言はリスペクトである:
Batchelor, John (1854-1944)
The Ainu and Their Folk-Lore. 1901
安田一郎訳, 『アイヌの伝承と民俗』, 青土社, 1995.
このことを強調するのは,アイヌへのリスペクトを「アイヌ差別」に転じるのが,"アイヌ"イデオロギーだからである。
"アイヌ"イデオロギーは,本質的に,アイヌ蔑視である。
そこで,アイヌへのリスペクトは,"アイヌ"イデオロギーが蔑視するアイヌの肯定になる。
こうして,アイヌへのリスペクトは,"アイヌ"イデオロギーにとって「アイヌ蔑視」になる。
例. | 『アイヌの伝承と民俗』に「栞」として付いている「国立民族学博物館教授 アイヌ民族学/北アジア民族誌専攻」氏の評論:
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まずはじめに、パチラーについて語ることは、かなり微妙な問題をはらんでいる、ある程度の紙数を割かないと正確なことは言えない、という懸念があります。結論から言いますと、パチラーのなしとげた仕事は全否定ではない、すなわち一定の見識をもった使い方をすればパチラーの著作は学問的にすぐれた意味をもつ、ということだと思います。
パチラーは、キリスト教伝道のためにアイヌ語訳祈祷書まで著している。つまり、あくまでヨーロッパから来たキリスト教伝道者の立場であり、キリスト教的世界観のバイアスのかかった人物だという点をふまえて読まなくてはならない、ということです。
本書 (原題 'The Ainu and Their Folk-Lore' ) の戦前の翻訳書 (『アイヌ人と其説話』) については、原文を日本語に移しかえるにあたって、誰が手助けしたかが大事な点かもしれません。旧版の翻訳には、パチラーに日本語を教えた人のアイヌ観が入っているわけです。当時の日本における社会的通念からくる、ある種の偏りはかならずはたらいていて、原文の幅広いニュアンス、が日本語になったとき、どうなっているか‥‥。バチラーの原典を、今日的な意味でニュートラルに訳すということ、ができたら、たいへん望ましいと思っていたのです。
パチラーがアイヌの文化に接したときに、どういうふうに彼がそれを受けとめたか、世界中でキリスト教の伝道者が経験したような文化変容の問題と通じることですが、キリスト教精神を背負ったヨーロッパ人が、しかも日本文化というフィルターを通して、二重に見ているところが、ひとつの時代状況として注意しなくてはいけないところなんです。いつの時代にも翻訳は、時代的制約がつきまとうわけですが、最初の日本語訳が出た頃とは状況が違うと思うんです。今日のように、アイヌをはじめとする先住民族の問題への理解が進んでいる時代であれば、もう少し訳語についても差別や偏見をもつのではなく、きちっとできると思います。
‥‥‥
時代的制約もありますが、一種の虚像としてのアイヌ・イメージを生みだす結果になってしまったことも認めざるをえないと思います。すでに述べたように当時の民族誌などにみられる差別的な常套句が散見されるわけで、それはやむを得ないことかもしれませんが、もう少しパチラーにはそれを超えてほしかったですね。‥‥時代認識としてたいへん難しいことだったとは思いますが。
‥‥‥
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事実は逆である。
キリスト教的世界観のバイアスのかかった人物の言だから,信用できるのである。
その時代のストレートな物言いをやってくれるからこそ,信用できるのである。
アイヌ民族学/北アジア民族誌専攻者の「差別や偏見のない」言説は,事実捏造・歴史改竄になるのみである。
この者にとっては,上の言が示すように,アイヌへのリスペクトが「アイヌ蔑視」になってしまうのであるから。
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