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菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社, 1966. pp.128-133.
シャクシャインの出生地、静内町は現在でも北海道でもっともアイヌの多い町で毎年アイヌの勇将シャクシャインをしのぶ祭りが行われてきた。
はじめはシャクシャインが殺害された十月十三日の命日に、シビチャリ川 (静内川) の河口にあたるシピチャリ城跡に、ウタリの古老や若者、メノコたちが集まり、クマを殺して神前に供え、盛大なシャクシャイン祭りが続いてきた。それば、年に一度、民族の英雄を回想して喜びとかなしみを語り合う、とのひとたちの大切な行事になっていたのである。
ところが、この祭りは、昭和三十七年からぴたりと中止されている。アイヌの青年たちが「アイヌ祭りを観光と結びつけ、祭りの意義をゆがめている」と反対運動に立ち上がったからだ。
静内町観光協会は、せっかくの行事だから北海道内や本州からもお客を集めようと計画した。
祭りの日も十月中旬では寒いからという理由で八月に繰りあげる、といった調子。主催もアイヌにかわって町の観光協会が引き受けることにしてしまった。アイヌのひとたちは、これにすっかり腹を立てて、三十六年八月、
「オレたちの英雄をしのぶ祭りにシャモたちは口をだしすぎる。悲運の武将シャクシャインの慰霊祭なのに、観光宣伝の材料に使い、無知なアイヌを集め、見せ物にして商人が金もうけをやるのはがまんができない」
という意味の声明書を発表した。とうとう怒りが爆発してしまったのである。
祭り三日前になって、静内町ウセナイコタンの酒折久男さん (当時三二歳) ら、五十人の青年たちが「アイヌ祭り反対」の決議文を観光協会につきつけた。続いて町のウタリ協会 (同族の会) も
「私たちは、和人に見せるためのシャクシャイン祭りには協力できない」
と、声明した。
アイヌ祭りとして、大いに客を集めようと、遠く札幌方面にキャラバン隊を送り込んで宜伝につとめていた町の観光協会も、これには大弱りだった。なんとかなだめで、祭りだけはやらないとメンツがたたない。町内のウタリ協会にまで反対されては──と、頭を抱えてしまった。この "祭り騒動" を取材にかけつけた新聞記者を前に、酒折青年はこう訴えた。
「和人に征服されてきたむかしの老人たちならともかく、若いボクたちの目や心をごまかすことはできない。シャクシャインの遺徳をしのぶお祭りなら大いに賛成、だ。しかし、とのやり方はどうですか。観光宜伝にばかり力を入れて、アイヌの勇将を祭るという本来の趣旨をまったく忘れているのです。アイヌのお祭りなのに祭典委員にはウタリ協会の役員がひとりもはいっていない。
観光協会の本心は、勇将や歴史のことはどうでもいいのです。ただ祭りでたくさんのお客さんを集め、大いにカセごう、というのが主催者側の本心だ。それが証拠には、これまで何年も祭りをやってきたが、城跡の保存とか、史実の調査などということはなにもやっていないのです。
札幌までもシャクシャイン祭りの宜伝キャラバンを出したが、これには、貧しいアイヌのひとたちを四、五百円の日当で集めて、シャモが持っているアッシ (アイヌの着物) を着せて踊らせる。祭り当日も、儀式をやる人や踊り子は、日当を払って雇いあげる。アイヌは日当さえはずめば、いつでも集まり、なんでもやる、という考え方が、この祭りを、まったく無意味なものにしているのです。
観光協会がお祭りをやるようになってから、シャクシャインの命日も忘れられてしまった。祭りが、観光客の多く来る八月の第一土曜日と日曜日に、ということになっているから、毎年お祭りの日時が変わってしまう。これじゃ、シャクシャインの霊もうかばれません──」
町の有力者で、観光協会の役員がシピチャリ城跡のふもとにホテルを建て、祭りの場所をこの近くに移したりしたのも、青年たちの非難の的になったようだ。
ところで、主催者側としては、すでにアイヌの男女に日当を払って約束し、行事の準備をすっかり終わっているのに、ウタリ協会やコタンの青年たちにソッポを向かれては、かっこうがつかない。ウタリ協会の代表者といろいろ話し合った。
「もともとアイヌの手で厳粛に行われてきたことは確かなことだ。たが、この祭りは、あまり世間に知られていなかった。北海道では、伝統と深い意義を持っているお祭りだし、広く公開して盛大にしようと考えて、観光協会が引き受けたのだ。多額な経費をかけて、郷土の歴史を紹介しようとしているのに、金もうけの手段などと非難されてはたまらない。祭りの運営について、ウタリ協会と、こまかい相談をしなかったことはまずかった。ちょっと観光協会が独走しすぎたきらいがある。いろいろな点で、青年たちを刺激したのは悪かった」。
祭典委員はこう言って、ウタリ協会の協力を求めた。結局「今後、シャクシャイン祭りは、ウタリ協会と協力して運営する」ということで、祭り当日の朝、ようやく話し合いがついた。
やがて静内川のほとりで、ドガッーン、ドガッーンと花火が打ち上げられ、祭りがはじまった。
ジリジリと照りつける太陽の下で、分厚いアッシ (アイヌの衣装) を着たアイヌの老婆五、六人が輸になって踊りだした。見物人は町から会場まで行例になって続き、その数は二千人に上った。
イヨマンテ (クマ祭り) の会場に人気が集まって、白シャツの見物人は、引きだされた一頭の子熊を囲んで人垣をつくっていた。
やがて、熊を殺す行事がはじまった。子熊は、首と足を頑丈なナワでしばられ、二人の男が、そのナワをつかんで見物人の前を何回も引き回した。子熊はナワが首につまってギャーギャーと苦しそうな声で鳴きながら見物人の前を歩いた。子熊が疲れきったころ、その体めがけて四、五本の弓矢が射ち込まれた。同時に二人の男が、力いっぱい子熊の首をしめつける。
‥‥‥
アイヌに伝わるイヨマンテは、‥‥‥霊を慰さめる祭りだ。ととろが、観光協会のイヨマンテは、‥‥‥子熊を「見物させる」だけの理由で、しめ殺してしまったのだ。
‥‥‥
「こんなお祭りは、やめてしまえ」
こういってアイヌ青年たちは、怒りを町の観光協会にぶっつけた。そして、とうとう翌年から、この有名なシャクシャイン祭りは、中止になってしまった。
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新谷行『アイヌ民族抵抗史』, 三一書房, 1972.
pp.256-258
シャクシャインが優勢な松前藩の軍に敗れて死んだ10月23日、アイヌ同胞はシャクシャインの砦跡である真歌の丘に集まって、毎年民族の戦いの歓ぴと悲哀を物語り合う祭りを行なってきた。
1953年には藤本英夫 (当時、静内高校教諭) や加藤三郎 (病院長) らを中心とする郷土研究会「ケバウの会」が主催して、シャクシャイン三百年祭が行なわれた。
「ケパウの会」は藤本が教える静内高校の生徒やOBから成っており、アイヌ同胞も多くいた。
ところが、1961年、この祭りに町の観光協会が目をつけ、人寄せにこれを利用しようとしたのである。
いま私の手元に、静内の郷土文化雑誌と称する『シベチャリ』という雑誌がある。
編集人は田中謙太郎。
その第二号に、町の観光協会がシャクシャイン祭を主催するにあたってのいきさつを書いているので、それをここに紹介しよう。
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静内観光協会は兎も角シャクシャインの碑の建設をおえて (この碑は1958年に建てられた──新谷)、次に何をなすべきか──いわゆる事業計画となるべき幾つかの企画案をつくる役員会がもたれたのは翌三十四年の春だった。
(中略)
理事に選任された町内各団体の代表者たちが集って鳩首協議の結果、曽我部氏から、札幌の雪まつりやテレビ塔建設の経験上、
『静内でなければできないもの金ではできないものとして歴史的なうりものをつくるべきだ』
と根本方針が打ち出され、それではと、田中謙太郎氏 (理事) から
『郷土研究ケパウの会が行ったシャクシャイン三百年祭を年中行事としては‥‥‥』
と提案された。
この案には
『松前藩と戦ったシャクシャインは、いわば和人の敵であるのに、われわれがお祭りをやるのはおかしい』
という意見もかなり強かったが、田中・曽我部両理事は、
『祭は一切彼等にまかせ、観光協会はそのPRをやるという建前をとろう。幸い彼らの無形文化保存会があるから相談しよう』
と日和見派を押し切って、次の会合にはアイヌ協会支部長・静内無形文化保存会長佐々木太郎氏や、ケパウの会から加藤三郎氏 (病院長)、藤本英夫氏 (高校教諭) 等も出席してもらい、検討の結果、同意を得てシャクシャイン祭実行委員会が編成され、ついに民族の祭典が行われることになった。」
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こうして、町の観光協会が主催し、PRしたシャクシャイン祭りが盛大に行なわれる。
借り物の熊でイヨマンテを行ない、「静内駅から本町アカシヤ通り古川通りを経てウグイス谷会場に至る道路は人波で埋った」(『シベチャリ』第三号) という。
更科源蔵も駆けつけてアイヌ歌謡「ピリカ・ピリカ」を採譜し、当時釧路方面を旅行中だった参議院の視察団一行も参加したというから、その "盛況" ぶりが目に浮かんでくるようだ。
こういう演出に対して、祭りの五日前、静内のウタリ協会がお祭り不参加の声明を出した。
静内ウタリ協会の代表者酒折久男は、この祭りに対して、
「 |
シャクシャインの遺徳をしのぶお祭りは大いに賛成だ。しかし、そのやり方が気にくわない。観光宣伝だけに夢中になりすぎて、『アイヌの偉人を祭る』という、もともとの趣旨を忘れている。いや、本心は勇将や歴史はどうでもいいのだ。お祭りで大いにカセごうというのが主催者側の考えだ」(『週刊朝日』六一年八月二十五日号)
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と語っている。
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