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松浦武四郎 (1857-1860), p.742
西地トマゝイ (苫前) 領なるフウレヘツといへるは運上屋より八里餘北にして
通行の人々止宿の為めにとて,元来漁業も無處なりしが、一棟の通行屋を建て、
番人を夏秋の間は一人宛置きて是にて取扱はしむるに、
共通行人の絶えし時には此番人等を引取る為めに、跡の番屋の守をなし當御用状の□立の為めにとて土人を一人置有りし‥‥
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吉田常吉 (1962), pp.299,300
道路の開鑿とともに旅宿所も設けられた。
寛政十一年まず様似・庶野・白糠・釧路・昆布森・仙鳳趾・厚岸・ノコベリベツ・アシネベツ・野付の十カ所にこれを設け、以後次第にこれを増設していったので、東蝦夷地一帯にわたって、宿泊に不便のないようになった。
旅舎はみな会所と呼んだが、のち旧運上屋だけを会所と称するようになって、宿泊に用いるものは旅宿所または通行屋と唱えた。
また人馬の継立制度が設けられ、会所および通行屋でこの事務を行なった。
急速を要する場合には早馬・早走・早船なども用意されて、人足・馬引などは番人の指図で蝦夷がこれに充てられた。
人足賃は初め一日米五合から一升を与えられたが、享和三年に一里につき人足一人銭二十文、馬一頭銭四十文と定め、礼文華山道・様似山道などは人足賃二割増と定めた。
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引用文献
- 松浦武四郎 (1857-1860) :『近世蝦夷人物誌』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.731-813
- 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
- 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
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