参照地図 (松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』より):
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高倉新一郎 (1959 ), pp.178-181
安永五〜六年 (1776〜7) 頃から福山地万が不漁になり、天明ニ〜三年 (1782〜3) 頃から江差地方も漁が少なくなって、四年以降はますま甚だしくなった。
そこで漁民は追錬と称して続々西蝦夷地に出漁し、瀬田内から歌棄に至る各場所には多くの鰊小屋を見るようになったので、西蝦夷地の鰊漁は著しく発達するようになった。
ところが寛政四〜五年 (1792〜3) から、蝦夷地も松前に近い地方がまた不漁になったので、漁民はさらに石狩辺まで追鰊が許されることになった。
松前地方の不漁は文化四 [1807] 年幕府が西蝦夷地を直轄してから再び恢復したが、追鰊は依然として続き、歌棄から小樽内までが最も多く、先端は厚田に達し、
天保十一年 (1840) には増毛に及んだ。
これらの出漁者に対しては、瀬田内から南は収獲高の一割を、それより奥地では、東蝦夷地の出稼漁夫と同じく収獲高の二割を場所請負に納めることになったので、請負人は座して二割を収獲することが出来たため、この出稼ぎを歓迎した。
この出稼者を九一又は二八取りと呼んだ。
ことに天保の大飢饉 [1833-1839(1836)] には多くの難民が島小牧から古宇に至る諸場所に続々と出稼ぎし、運上屋に仕込みを願った。
運上屋でも一は自分の場所から飢民を出しては困ると考えたのと、漁獲をさせれば一割ないしニ割を収納し得る外に、これらの漁民の収獲物を販売することが出来たので、これらに米噌を支給して漁業に従事せしむることになり、やがてそれが永住者となった。
ところが文化四 [1807]年の日記によれば、
太櫓辺にはもはや畑が見え、
瀬田内から寿都にかけては建てられた番屋まで朽ちて、
その先の磯谷・岩内等が追鰊で賑わい、
小樽内は「追鰊第一の場所に而、是より先へは追鰊漁相成らず」、漁家すでに二百戸に及んでいた。
安政元 [1854] 年になると小樽内までは点々と鰊小屋が続き、その先端は天塩のウエンベツ (今日の遠別) に及んでいる。
松前地方の不漁による鰊製品の値上りは、又蝦夷地の鰊漁を大規模化した。
従来松前地の鰊漁に小さな刺網しか許されていなかったが、
蝦夷地では天明 [1781-1788] 頃すでに大網を使って締粕を製造し、名目は雑漁であったが鰊にも及んでいたらしく、
寛政元 [1789] 年、凶漁にあえぐ江差地方の漁民は、これが凶漁の原因だとして騒いだので、藩はこれを禁止したことがあった。
しかし禁止は徹底せず、奥地では依然として使用が続けられ、
天保 [1830-1843] 年間には近くの蝦夷地まで使い出したので、
十四 [1843] 年再び禁止した。
しかし、西蝦夷地請負人一同は、差網の使用が出来ない所及び追鰊業者がすくなくて差支えのない所に限り、鰊取浜中が相談の上異議のない場合には使用しても差支えがないとの特典を受けた。
そしてこれを口実に益々その漁場を拡張し、中には追鰊業者でもこれを使って漁穫する者が出来て来た。
刺網は、鰊が産卵のため岸に寄せて来るところへ網を投じ、網にかかる鰊をとり上げるので、一定の量だけとると網を引上げ、鰊を岸へ運搬せねばならなかったが、
大網は、寄せて来る鰊を大きな網ですくい上げ、又は沖合に大規模に網を張りめぐらせて一挙に囲い込み、それを汲み上げるという方式であったから、大量にとることが出来た。
刺網には 網一流に数人の人で 漁業中の宿泊も仮小屋ですんだが、
建網には 一統に二〜三十名の船頭・漁夫を要し、それを宿泊させる漁小屋も勢い大きなものでなくてはならなくなった。
ところが、鰊の豊漁地帯は蝦夷の戸口がすくない所が多かったので、大網業者は勢いその労働者を松前・江差、さらに南部・津軽などから求めねばならなかった。
そして早春、大船を仕立てて漁場に送り込んだ。
漁家ことに運上屋番屋は大きくなっていった。
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松田伝十郎 (1799), p.162
一、松前附江さし村々百姓ども西暇夷地イシカリ 地名 邊へ鯡取に相越し、これを追鯡と唱へ役金を納めて切手を江指(差)御役所より相渡す事にて、圖合舟壹艘役金壹兩、三半舟壹艘同三分、ほつち舟壹艘同貳分、磯舟壹艘同壹分と上納して、御役所判にて切手を渡す。
幷江さし附前濱にて漁する舟は役金前同様上納。
是は鑑札を渡す。
渡し仕廻ひ時節を見計ひ舟改として下役在住の内同心相添東西村々へ行きて改ること定例なり。
鯡役金も少からず、沖ノ口番所にて取立もの幷市中より納物等にて、彼是合て三千兩餘の収納高になる。
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引用文献
- 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175
- 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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