Up 場所請負人の高負担 作成: 2019-01-01
更新: 2019-01-01


      高倉新一郎 (1959 ), pp.163-168
    場所請負人の任務は、
    会所もしくは運上屋が蝦夷交易・漁業等に当る外、
    蝦夷の介抱、
    官用書状の継立、官用旅行者の宿泊、人馬継立等公用の一部をも負担し、
    その他道路の台場・勤番役所の修理維持、
    非常の備え、すなわち兵糧米の管理、幕串・松明の用意など一切の経費を支弁させられたので、
    非常に重くなったかわりに、又その場所における勢力も大きくなっていた。
    例えば、嘉永元年 (1848) ネモロ・国後両場所を請負っていた柏屋喜兵衛が、損耗甚だしく、取締り難いので、請負人辞退を申し出た。 国後場所はことに蝦夷人口が乏しく、産物が不足な所に擇捉島への渡り口として負担が重かったからである。
    松前藩では驚いて慰撫し、ようやく藩で直営し、喜兵衛がこれを差配するということで落付いたが、その時喜兵衛が出した条件は次のようであった。
     一  天保十年(1839) 以前喜兵衛が請負っていた時には、根室勤番の者上下合せて十名あり、その賄料及び役儀としての入用 (例えば祭日の振舞酒、オムシャの際蝦夷に与える品代等) 並びに支配人・通詞等の上下の際や折々の献上物など合せて金四百両余の外に、品物として椎茸三千三百粒、雑油五挺、塩鱒二百二十五本、塩鮭百五十五本、筋子 (鮭の卵) 十樽余、寒干鮭百二十五本を要した。 ところが、その後勤番人数は増されて十九人になり、一人当りの入用もふえて、その費用は八百二十六両の外に椎茸六千百粒位、雑油九挺余、塩鱒四百本、塩鮭ニ百八十五本、筋子十九樽、寒干鮭二百五本と増加している。 今後はせめて勤番一人当りの入費を天保十年の昔に返したいこと。
     二  毎年秋味を積んで江戸に上る船に勤番の者が色々な品物を注文する仕来りであったが、これは間違いが出来、損をするので、止めてもらいたいこと。
     三  ネモロ勤番入用の品は定値段で会所から納めていたが、物価が高くなって間に合わないので、前年買入値段で買ってもらいたいこと。
     四  国後場所は蝦夷がすくなく、思う通りの漁事すら出来かねるので、蝦夷は余程の時でないと使わないようにしたい。 そこで従来は頭から足軽まで勤番一人毎に蝦夷人一人を小間使につけたが、今後は台所一ケ所に炊事のため一人、足軽には三人に付一人の割にしたいこと、かつ勝手に細工物等に使わないこと。
     五  擇捉島には勤番が毎年五十人(ずつ)三番に別れて行くが、国後島への渡り口であるネモロの野付に着くと、その度毎に国後へ渡し、そこから又船で海岸沿いに擇捉島に送る。 そのために 根室では、船六艘、水主番人十三人、蝦夷人六十人、 国後では、船四艘、和人二十人、蝦夷人四十人 を要する外、 沿岸五ケ所の宿泊所に、和人二人、蝦夷人二人ずつを配置せねばならなぃ。 そこで、野付から擇捉へ弁財船で直航させたい。
    というのであった。
    如何に請負人の負担が大きなものであったかがわかる。
    それでも喜兵衛はこれを希望しながら
     「 御勤番様御気清相障候節は、自然と御憐情も薄く成行候道理にも可相成哉、傍心配仕候」
    といっている。(場所差配中心得書)
    国後場所は年々不漁が続き、ネモロ場所は喜兵衛が天保三年以来請負っていたところ、天保十一年急に藩の都合で、準備を整えた後、他の請負人に切替えられた苦い経験を持っていた。
    藩もこうした弱身があるので、請負人に対して強いことはいえなかった。
    天保十三年(1842) 年々の不漁続きで従来の請負人が辞退を申し出でた時、これを喜兵衛と栖原屋金蔵に請負わせょうとして藩が申し渡した文言の中に、
     「 介抱物も、喜兵衛金蔵が差配してからは、前の金兵衛 (高田屋嘉兵衛の後嗣) が事思ひ出し、戀しがらるる様では大きにわるいが、しかし、其方共もしる通り、蝦夷人と申すはなんぼ手当をよく致してやっても限りもないもの、是はこれまで其万共の請負所の振合にてよし」
    といった文言がある。
    場所のことはほとんど請負人に任せ切りだったのである。
    その場所の請負人は営利を目的とする一商人だった。
    ところが、豊凶のはげしい漁業を基礎とし、遠隔の地を往復するために、収益が極めて不安定で、危険が伴ったばかりではなく、負担が又極めて重かった。
    今、東蝦夷地のように整理されずに残った西蝦夷地の場所請負人の負担を見ると、
    運上金の外に、
    新しい産業を興すための冥加金,
    一定以上に産額があった場合の増金があり、
    差荷料・土乗金などの名目がある。
    差荷料とは場所の産物を知行主に贈ったものが定量化したもの、上乗金とは上乗役の費用を請負人が負担していたのが衡久化したものである。
    その外に文化十 [1813] 年からは運上金の百分の二を請負人から取り立てて松前地方に備米をし、住民困窮の際にあてた二分金があった。
    その運上金は、契約期限が来ると競争入札に処せられる。
    豊かな場所程希望者が多く、競争がはげしく、他に奪われるおそれがあり、負担は勢い増加する傾向にあった。
    嘉永六 [1853] 年調べによると、これらのすべての負担をふくむ運上金の総額は
    西蝦夷地 一万八百三十一両二分、
    東蝦夷地 八千四百三十九両余
    で、合せて一万九千二百九十両二分余、天明六 [1786] 年の調査からすれば約四倍になっていた。
    産額の増加もあったと思われるが、東蝦夷地の運上金の急騰は文化九 [1812] 年の競争入札によるものであった。
    安政以後には、各場所が負担していた勤番の費用が幕府の再直轄によってかからなくなったので、これをそのまま仕向金として運上金の中に繰り入れたが、その金が年々六千三百両に達していた。
    請負人はこうした正規の運上金の外に藩からは御用金や立替金を命ぜられ、幕府になると、種々の臨時費用が増運上金の形で課せられた。
    これらのものを契約期間中に回収せねばならぬとすれば、勢い出来る限り義務を怠り、時に施設を荒廃させ、さらに収益を挙げるためには資源の枯渇をも省みなくなるのは当然であった。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959