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窪田子蔵 (1856), p.246
夷人申様は、運上屋我等を虐使する事殊に甚し。
春二月鯡漁初めてより引続夏は昆布とり、又鮭捕り、秋は鮭漁、其間は魚漁の支度、網繕ひ等まで紛々無レ限事に候。
漸く十一月に至り私家に帰る事を得るなり。
然らば我等年中家に居るは冬より春へ僅三月なり。
如レ此に骨折候とも、運上屋我等に報ゆるに木綿一反或ひは青銭六百文に過ぎず、昨年イシリの島へ行き役を取り、三四月勤め候とも、一銭の報も与へず、余り此如き事甚敷打続候へば、此節は自然漁事勤むるもの無レ之、大概に打置候。
されば漁事も年々少なくなり候なり。
又当所は山深く地広く候へば、山猟も多分有レ之、熊杯も年々四五十は手も無き事なれども、我等危きを犯して空敷運上屋の徳分となるも詮無し。
故に山猟に出る者往々見当り候とも、遂ひ来る悪獣にも無レ之分は、其儘に打置申候。」
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高倉新一郎 (1959 ), p.168
軽物などは集荷が思わしくなかったが、それは
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東西より相廻り候熊胆の義、何れも性合不レ宜に付、内実相糺候処、土人共穴熊取獲候ども手当不足に付、押隠し、内々番人又は稼人等の内商のものへ売払、当所へは取拵の胆のみ相廻し候よし。」
(堀・村垣意是書, 1857)
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といった事情からであった。
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引用文献
- 窪田子蔵 (1856) :『協和私役』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.223-270.
- 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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