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吉田常吉 (1962), pp.286-288
文化四・五年(1807─8) 頃の蝦夷地の和人の人口は三万一千七百余人であったが、嘉永三年(1850) の調査では五万九千五百余人となり、三十年間で九割近くも増加した。‥‥
これに伴って、西蝦夷地ことに神威岬以南の諸場所に漁民が土着して開拓に従事するようになったのは、この時代の現象であった。‥‥
このような西蝦夷の労働力の増加はこの地方に漁業の進歩をもたらし、ことに鰊漁は従前に増加し、ついに鰊搾粕さえ製造されるようになった。
これに反して東蝦夷地の漁業は一般に振わず、前時代に目覚ましい発展を示した奥地の漁業も次第に凋落していった。
蝦夷の戸口が著しく減少し、その勢力を失った ‥‥
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引用文献
- 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
- 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
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