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滕知文 (1801), p.90
或時茂左衛門会所に独り閑然たる折からメノコ一人来り居りしが、いつしか寝臥したりしかば、茂左衛門叱ていう、汝我前をはばからず、まさしく陰門を出せしは不敬にあらずやという。
メノコこれを聞き、喪胆して起きあがり、問ていうよう。然らば見られたるや、という。
茂左衛門答て如何にも見たりという。
さらば償を賜るべしという(此国の法とて男子女子の陰門を見れば、償を出すことなりという)。
茂左衛門聞て、汝が申す条もっとものことなれば、償を出すべし。さりながら、我は公命によりて郷里の妻子を捨て肝胆をくだし此処に来るものは、畢竟我等救命の故あり。然るに汝等我に陰門を見せ、すこしく淫心の気を生ぜしめしはこれ汝が罪なり。この償は汝が方より出すべしといえば、メノコ笑って去りしという。
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東□元稹 (1806), p.36
若番人等にても、女夷の陰所を見たりといへば、其アイノ番人に、かくすべき事をいひふらして我等に恥を與へたりとて、償をとる事と也。
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番人
北海道大学北方資料データベース, レコード ID 0D023550000000006
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久保寺逸彦 (1956) : pp.73-75
むかし、沙流・紫雲古津のコウセパという娘が、門別の会所に勤めていた下役の秋田の人某 (アイヌたちは Chokko nishpa と綽名したという) とわりない仲となったが、男が郷里秋田に帰ってしまってから、それを慕って歌った「イヨハイオチシ」が、今に伝えられている。
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Neita-an kotan
neita-an moshir
re-kor katu
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どこにある村
どこにある国であるから
その名を
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Akita ne kusu.
Akita wenkur!
Akita pinpo!
an akusu,
tu-sui chi-raike
re-sui chi-raike.
chikap ta ku-ne
tori ta ku-ne.
kiwane yakne
Akita kotan
ko-yaiterker
ku-ki wa neyak
shine-itak poka
tu-itak poka
ku-ye wa ku-nure
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秋田というのだろう。
秋田生まれの乞食野郎! (1)
秋田生まれの貧乏野郎! (2)
汝のお蔭で
二度も殺されそうな目に遭い (3)
三度も責めさいなまれたぞ。 (4)
鳥になりたい
禽になりたや。
そうしたら
秋田の町へ
飛んで
行って、そして
せめて一言葉だけでも
二言葉だけでも
いって (あいつに) 聴かせて
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ki rusui yakka,
tekkup sakpe
ku-nep nekusu
ene ku-yehi
ene ku-kari
oar isam.
haipota! ku-yainu wa
tapan ku-yainu
nekon ku-ye ya?
nekon ku-kar?
haita ya na!
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やりたいけれど、
翼もない
私のことだから
何と言いようもなく
どうして見ようも
ないのです。
ああ情けない! と思うて
この私の切ない思いは
何といったらいいでしょう?
何としたらよいものでしょう?
ああ情けない、ああ切ない!
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〔注〕 |
(1)(2) |
哀慕の情の切なるあまり、男を罵っていう。 |
(3)(4) |
和人と関係したため、折鑑されたのだが、親・兄弟からか、会所の役人からか不明である。 |
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引用文献
- 東□元稹 (1806) :『東海參譚』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.23-44.
- 滕知文 (1801) :『東夷周覧』
- 知里真志保・河野広道 (1952) :「性に関するアイヌの習俗」
- 知里真志保『和人は舟を食う』, 北海道出版企画センター, 2000, pp.87-98
- 久保寺逸彦 (1956) :「アイヌ文学序説」, 東京学芸大学研究報告, 第7集別冊, 1956
- 『アイヌの文学』(岩波新書), 岩波書店, 1977
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