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高倉新一郎 (1959), pp.70,71
[雇用労働] に蝦夷を引込んで行ったのは、独立した生活よりも豊かな、安全な生活があったためであるが、一部は前貸制度のためであった。
寛文九年の蝦夷乱の時も、
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串貝一束もたり不申候はば来年は二十束にてとられ、出来兼申狄は子供質にとられ申候」
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といっていることはすでにのべたが、差引勘定に当っては出来るだけ蝦夷に負債を負わせ、翌年も働かせるようにしたらしい。
例えばオムシャでは、運上屋に蝦夷を集めて総勘定をした上酒食を饗したのであるが、多くの場合それだけでは足らず、運上屋からさらに酒を買って呑み、それが負債となって残る場合が多かったと思われる。
そこで、オムシャの際饗せられる酒や米の一部は最初から蝦夷の負債で行われた。
例えば、寛政十二 [1800] 年「蝦夷土産」に
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蝦夷にオムシャと言事あり、是は毎年夏秋之内松前家役人場所へ下り、土産となぞらへ、米麹何十俵 (但し八升入なり) 煙車壱弐把、酒壱樽 (四升入) を添へ‥‥‥家柄の夷人へ遣す事のよし ‥‥
此土産の品の内、煙草斗は誠に呉遣す事なれども、其余の品は追々産物を以代りもの取上る仕来りにて ‥‥
仕来とは言ひ乍ら、土産にくれし代を勘定して取立るもおかしなもの ‥‥」
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といっている。
オムシャの際前貸の形で貸付け、後、産物で勘定させた名残であろう。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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