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北海道教育研究所(編) :『北海道教育史 全道編一』, 北海道教育史刊行会, 1961.
pp.219-223
旧土人教育
前代から,大きな社会問題・政治問題として注目されてきた旧土人保護のことは,明治三十二年三月, 法律第二十七号で「北海道旧土人保護法」の公布をみるに至って、新たな段階を迎えた。
この法律は,旧土人の刻下の問題である授産・救済・医療・教育・共有財産管理の各項を網羅し. それぞれについての保護の方針を明示している。
教育については、
「 |
北海道旧土人ノ貧困ナル者ノ子弟ニシテ就学スル者ニハ 授業料ヲ給スルコトヲ得」(第七条)、
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「 |
北海道旧土人ノ部落ヲ為シタル場所ニハ 国庫ノ費用ヲ以テ小学校ヲ設クルコトヲ得」(第九条)
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と定められていた。
ちょうど明治三十四年から、北海道十年計画が立案され、この旧土人児童教育に関する施設も、その一環として計画されることとなり、
明治三十四年以降に旧土人小学校を毎年三校ずつ新設し、
七か年に二十一校とすること
などの計画が立てられた。
旧土人児童教育規程
また、明治三十四年三月、庁令第四十二号をもって、「旧士人児童教育規程」を定めた。
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旧土人児童教育規程
第一条
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尋常小学校ニ於テ旧土人児童ト其ノ他ノ児童トヲ区別シテ教授スル場合ハ 旧土人児童ノ教科目 各学年ノ教授ノ程度及毎週教授時数ハ 此ノ規程ニ依ル
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第二条
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旧土人児童ノ教科目ハ 修身、国語、算術、体操、裁縫 (女子)、農業 (男子) トス
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第三条
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旧土人児童ノ各学年ノ程度及毎週教授時数ハ 別表ニ依ルヘシ 但土地ノ情況ニ依リ 農業中水産ヲ闕クコトヲ得
前項ノ規定ニ依リ難キ事情アルトキハ 管理者又ハ設立者ハ 其ノ事情ヲ具シ 北海道庁長官ノ認可ヲ受ケテ 其ノ毎週教授時数ヲ増減スルコトヲ得
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第四条
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尋常小学校若ハ其ノ分教場ニ於テハ 児童ヲ旧土人ト其ノ他ノ者トノ二部ニ分チ 一部ノ教授了リタル後他ノ一部ヲ教授スルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テハ 毎日ノ教授時数ヲ 各部三時以上トス 但特別ノ事情アルトキハ 其ノ一部ハ之ヲ二時ト為スコトヲ得
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第五条
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前条ノ規定ニ依リ児童ヲ二部ニ分チ教授スル学校ハ 明治三十三年文部省令第十四号小学校令施行規則第三十九条ノ半日小学校ト同視ス
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附則
第六条
別表 (省略)
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さらに同年五月,道庁訓令第四十三号で旧土人児童教育規程の施行上の注意要項を. 大要つぎのごとく示達した。
一 |
、尋常小学校に二個以上の学級を設ける場合に、旧土人児童の人数が一学級を編制するに足ると認めるときは、旧土人児童のために学級を別にすること。
一学級の編制が困難のときは、なるべく半日小学校とすること。
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二 |
、各教科目は、普通の尋常小学校のおよそ第三学年までの程度を四か年に修了せしめる旨趣であるから、簡易を旨として教授すること。
なお教授は、実物教授法によって輿味を起こさせ、教材は卑近で生活に必須なものを選び、反復練習し、熟得させるよう務めること。
また思想を整理し、観念を明瞭ならしめ、言語を練習し、漸次教育の効果を収めること。
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等の全般的注意のほか、修身・国語・算術・体操・裁縫・農業・管理訓練にまで及んでいる。
旧土人教育施設
さきにのぺた計画によって、明治三十四年から同三十七年までの四か年は、予定どおり学校設立が進行し、十二校が新設されて、その地方の児童は、従来よりもより進んだ教育が受けられるようになったけれども、財政上白困難から、それ以上の施設拡張が困難となったので、明治三十七年一月、道庁訓令第四号で「旧土人児童教育施設ニ関スル件」を通達し. 教育施設に関する負担を節減することとした。
その後、明治三十八年度は日露戦争のため教育費は大削減され、既設の学校を維持するにとどまり、以後増設廃止があって、同四十五年には二十一校となった。
明治四十一年三月、庁令第二十二号で「特別教育規程」を定め、「旧土人児童教育規程」を廃止した。
なお同年三月の「特別教授ニ関スル注意要項」の中に、旧土人の児童についての注意をのべているが、大要は前の「旧土人児童教育規程」と同じである。
委託教育の奨励
これらの規程からみられるように、旧土人児貫教育は、和人児童との分離教育を原則として計画されてきた。
分離教育は、旧土人の生活様式・程度・習慣・能力等から一応当然のことと考えられるのであるが、教育費節減の趣旨から、明治三十七年の「旧土人児貫教育施設ニ関スル件」によって委託教育が勧告され、漸次和人児童との合同教育が実施され出した。
このへんの事情について沢柳政太郎は、つぎのようにのべている。
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僅々二万に足らない彼の種族は目下全道各地に散在して居って部落を成せる所は少ない、又国庫より支出せられる土人教育費に限があって急に多くの土人学校を設置する訳にも行かず、従って総ての学齢児童に特別教育を施すことが出来ない。
そこで、特設学校なき地方の土人児童を其の附近の公私立小学校に委託し就学児童教授の多寡に応じて委託料を其の学校に附与し、出来得る限り土人児童に適切なる教育を施さんことを期して居る。」(『我国の教育』)
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旧土人児童教育規程
大正五年十二月、庁令第八十六号で「旧土人児童教育規程」を定め、さきの「特別教育規程」による旧土人児童特別教授の要項を廃した。
この規程の要点は、つぎのとおりである。
一 |
、旧土人児童が満七歳に達した日以後における最初の学年の始めをもって就学の始期とする。
ただし、心身の発育の特に良好な者は、区町村長戸長において監督官庁の認可を受け、就学の始期を一か年繰り上げることができる。
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二 |
、旧土人児童の尋常小学校修業年限は四か年とする。
ただし、土地の情況により六か年に延長できる。
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三 |
、「北海道旧土人保護法」による小学校および旧土人児童とその他児童とを区別して教授する尋常小学校では、教科目を修身・国語・算術・唱歌・体操・実業(男) ・裁縫(女) とし、毎週一学年二十一時間、第二学年二十三時間、第三学年男二十五時間女ニ十七時間、第四学年男二十五時間女二十七時間とする。
土地の情況によって、毎週教授時数を十八時まで減ずることができる。
実業は土地の情況によって農業または手工の実習をさせる。
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四 |
、教員の配置は、「小学校令施行規則」第三十五条の規定によらなくともよい。
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五 |
、尋常小学校第四学年の卒業者がひき続いて教育をうけようとするときは、第五学年に編入する。
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さらに同日、道庁訓令五十五号で「旧士人児童教育規程制定ノ要旨ト施行上特ニ注意ヲ要スル事項」をしめした。
修業年限の短縮については、
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従来ノ修業年限六ヶ年ハ 旧土人ノ情況ニ鑑ミ 長キニ失スル嫌アリ」
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とのべ、土人部落の民度開発がいまだふじゅうぶんであることによるとしている。
就学年齢を七歳以上としたことについては、
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心性ノ発達和人ノ如クナラザル旧土人ニ対シ 等シク就学ノ始期ヲ満六歳トセルハ 多少早キニ過クル嫌アリ」
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とし、心身発育の特に良好な者についてのみ一か年操上げを認めている。
教科目については、
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心力ノ発達程度其ノ他ニ鑑ミ 寧ロ之ヲ取捨整理スルノ要アリ 殊ニ修業年限ヲ四箇年ニ短縮シタルヲ以テ 一層教科目ヲ減少セシムルヲ要ス」
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とのべ、国民的性格養成と日常生活に関する実用的知識の養成とに必須なものを主眼とし、勤労を好み規律を重んずる習慣の養成を期することとしたとのべている。
旧土人教育の概況
以上のような性格と内容による「旧土人児童教育規程」は、大正六年四月から実施されたのであるが、これについて「北海道旧士人概況」では、
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一面種々の点に長所を有するに拘らず 修業年限短くして地理歴史理科等の諸教科を修めしむること能はざるを遺憾とし 旧土人中には之を喜ばざるものあると共に 多年児童の教育に従事せるものも亦 旧土人の開発上修業年限教科目等を和人同様とするの必要を主張するあり。」
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とし、和人児童との差別教育の撤廃による平等の教育の要求が高まってきたことをのべている。
ともかく. 理事者・教師などの、教育普及に対する努力も手つだって、旧土人の、学校に対する認識もだんだんと高まり、したがって、就学率においても、
明治三十四年 44.61 % から、
同四十三年には 92.21 %、
大正五年には 96.59 %
となり、形式的には、一般の就学歩合と遜色のない程度にまで向上したのである。
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伊藤明「教育現場での日々の実感」,『コタンの痕跡』, 1971, pp.1-11.
pp.4,5
公立姉茶尋常小学校 学校要覧 昭和九年
本校の教育方針
前述の旧土人教育規程廃止せられたるとはいえ、これが要旨を汲み、教育勅語成申詔書並に国民精神作興に関する詔書の御 趣旨を奉載し教令の示す所に従ひ健全なる国民の養成を期するにあります。
学校教育は単なる教材の授与でなく児童の全人格の構成、全人教育にあると思って居ります。
一時限四十五分の授業は勿論三十分にしても飽くる児童に進まざる学科の強制よりも個性尊重,秀でたるものをより以上に延ばしめてやり度い。
私は和人校在職中一割の土人の子供を教えた事のあるのみで本校へ赴任して参りました。
しかも本校には一人の和人の子供もなく純然たるアイヌの子のみの学校、それは予期した以上の色彩の濃いものでした。
丁度一枚の硝子は白いが数枚重ねた硝石は青い色彩を持つごとく自分のアイヌ人に対する認識の不足を今更に感じ、壇上 に立った時、私は子供をどう導いたらよいのかしら?‥‥‥。
栄養不足な顔、ショボショボ目の子、がんベの子、ひぜんに患む子、それに動作の不活発‥‥‥。
総べて悪い所ばかりすぐり寄せた感じの淋しげな私の教え子。
私は言葉もなくじっと一人ずつ見廻す中に一人でに目頭があつくなりました。
何という可愛そうな子供達ばかりだろう。
よし、できる限りの愛と熱とをもって伸び伸びとした活発な子供にしてやりたい、それが私の念願でした。
それより毎日毎日のれんに腕押しの日がつづきます。
甲斐うすければこそ尚ほ努力する特殊教育も私には身も心も打込むところの終生の仕事だと思って現在にいそしんで居ります。
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