Up 場所請負制・運上屋 作成: 2018-12-14
更新: 2018-12-29


      高倉新一郎 (1959), pp.53,54
    こうして蝦夷地の産物がふえると、場所持は藩に願い出て、積取船の数を増した
    その時は積出す産物の品目を決め、一定の運上金を藩に納めるので、場所の交易に関係のないものならば藩士以外のものでもよかった。
    水戸藩の快風丸なども、石狩の鮭を交換するというので許されたのである。
    蝦夷交易も、もともと松前から持渡るものはことごとく本州から移入されるものであり、交易して得たものは大部分本州市場で売捌かれるので、場所持及び藩は、本州から積まれて来る荷物を小船に積んで蝦夷地で交易をしに来る、いわば蝦夷地物産の集荷人に過ぎなかった。
    故にその交易の使命は本州の大商人に制せられていたというべく、藩や藩士がこれに当っていたのは、黒印状に示された蝦夷の保護者であるということだけだった。
    故にオムシャを中心とする儀礼的な交易が、全体の蝦夷交易の一部分に過ぎなくなると、これすら商人に任せてしまうことになった。
    すなわち、蝦夷交易の品物を提供し、交易品を売捌く実権を握っていた商人は、やがて蝦夷交易にも乗出し一定の運上金を場所主に納めて自らこれに当ることになったのである。
    場所持の多くは、これらの商人から負債を負い、その仕送りで生活をしているような有様だった。
    商人も一定の金を納めてその実権を握った方が有利だったろう。
    こうして享保 [1716-1736] 年間には藩の交易船も商人の手に渡されてしまっていた。
    一定の運上金で場所の産業を請負うという意味で、これ等の商人を場所請負人と呼ぶ。
    蝦夷地の交易はこの商人の手腕と技術並びに資本が投下されることによって著しく発達した。


      吉田常吉 (1962), pp.291-293
    場所請負人
    場所制度は‥‥、最初は場所知行主、すなわち場所持の藩士がみずから蝦夷交易を行なっていた。
    しかし交易がますます大規模になり、商人の勢力が盛んになってくると、資本の上でも技術の上でも、場所との交易を商人にまかす方が有利であった。
    そこで場所持はこれを商人に請負わせて料金を収得するようになっていき、ついには藩の直領地にまでこの方法が及んでいった。
    この商人を請負人、料金を運上金、交易所を運上屋と称した。
    請負人の起こった年代は明らかでないが、松前氏十代矩廣 (寛文五年・1965年 ─ 享保五年・1720年) の頃といわれ、直領地が全部請負人の手に渡ったのは、十二代資廣 (寛保三年・1743年 ─ 明和二年・1765年) の時といわれている。
    支配人・通詞・帳役・番人
    知行主に替わった場所請負人は、自己の請負場所に支配人・通詞・帳役・番人などを派遣して、蝦夷との交易を行なわせた。
    支配人は請負人の代理で、場所の交易や漁業を総括するものである。
    通詞は蝦夷と和人との間をとりもつ役で、蝦夷語に通じ、蝦夷地の事情に詳しく、場所経営の中心をなすもので、主として松前城下から雇われた。
    帳役は書記役で、番人は帳役らを補助して蝦夷を監督使役するものであった。
    以上の諸役のうち通詞以外のものはすベて出稼人であるが、年々同じ請負人に雇われる常雇で、蝦夷地の事情に通じるに従って、番人から帳役・通詞・支配人と上っていくものが多かった。
    なお番人の下で、蝦夷のできない仕事に従事する働方と称する臨時雇があった。
    運上屋・会所
    これらの人々は,蝦夷地の請負場所に設けられた交易所,すなわち運上屋に寝泊りし,蝦夷のもたらす産物を交換し,それを荷造りすると,冬にならないうちに船に積込み,場所を引上げた。
    交易が盛んになるにつれ、ことに漁業を直営するようになると、最初は小規模であった運上屋は、後には番人・稼方を寝泊りさせ、雇蝦夷を集合させるに充分な構えとなり、
    漁具や漁獲物・米などを入れる船蔵・漁屋・米蔵・雑蔵などの倉庫が設けられ、
    常雇の蝦夷の住家を控え、魚見櫓や小さな社などをもった小部落が発達していった。
    ここを中心として、漁獲物のある所には、番屋などの建物ができ、魚期には番人が蝦夷を引率して寝泊して漁業に従事し、終ると引上げた。
    番屋は運上屋の出張所で、漁業の盛んな重要な番屋になると、運上屋に劣らない施設を持っていた。
    ちなみに運上屋とは西蝦夷地における呼称で、東蝦夷地ではこれを会所と称した。

      同上, p.294
    知行主と請負人の関係
    場所請負人は知行主に対し、請負期限・運上金を定めて場所を請負うのが普通で、その契約は対等であった。
    なお運上金の外に差荷(さしに)といって、知行主の賄料として場所の産物若干を納める習慣があった。
    請負期限が切れると、契約を更新して続けるものもあり、または他の請負人と替わる場合もあった。
    請負人の多くは知行主に日常の需要品を供給し、或は金銭を融通し、年末に運上金と差引計算したようであるが、この制度は知行主に不利益であったようである。
    ことに知行主の家計が窮迫してくると、運上金を引当てにして請負人から前借してやりくりするようになって、松前の経済的実権は商人の手に握られていった。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.