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吉田常吉 (1962), pp.283,284
‥‥ 僻遠の地に位し、領土は広く、領民には和人あり、蝦夷あり、和人の中にはまた数多の旅人もいたばかりでなく、産業もまた他藩と異なっていたので、その施設もおのずから他藩と趣を異にしていた。
例えば和人地と蝦夷地との区別、蝦夷地における場所の設定、蝦夷に対する政策、旅人の待遇、沖口の制度などがこれであった。
産業は漁業が根幹をなし、鰊・鮭・昆布が著名であった。
鰊は西蝦夷地を主とし、鮭は石狩を本場として、東蝦夷地に多く、昆布は亀田付近から駒岳前浜辺にかけて最良品を出した。
漁業につぐものに鷹の捕育、砂金の採取、木材の伐採などの諸事業があげられる。
鷹は全島四百カ所の鷹場で捕えて本土に送り、また将軍への献上品でもあった。
砂金は東蝦夷地で多く採取され、元禄(1688─1703) 頃には西蝦夷地の羽幌でも採取された。
木材は江差の檜山が延寶 (1673-80)・元禄頃から山師によって買出され、東西蝦夷地の蝦夷山林も元禄頃から江戸・大坂の市場に販売されていた。
これらの諸事業は一時盛況を呈したが、やがて或は廃絶し、或は衰徴していった。
本州との交通は、初め敦賀・小浜を起点とする西回りに限られていたが、さらに進んで大坂と直接の取引きを開き、この時代の終りには江戸との取引きも活発となって、東回りが多く利用された。
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引用文献
- 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
- 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
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