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高倉新一郎 (1959), pp.61,62
魚の加工で進んだのは、魚油・締粕の製造だった。
魚油は最初
鯨・海豹・トド・キナンボウ
等の脂身をとかして樽につめたものであったが、享保以後
鱒・鰊・鱈その他雑魚
を煮て締木にかけて搾るようになった。
そしてその粕は干して肥料として売り出されることになった。
魚粕肥料は、
本州の干鰯にかわって、身欠鰊の屑などがそれにあてられていたが、
近畿地方の綿・藍等の商品作物の肥料として歓迎されるようになると、
大量を短時間で処理することが出来、貯えて置いて適宜に積み出すことが出来たので、
干物としてよりは粕に製造するものが多くなり、
漁獲物の種類の増加と共に、漁場の範囲を拡げて行った。
鱒などは干魚や塩切にしては引合わず、粕にし、油にして始めて遠い地方まで漁場を拡大することが出来たのであった。
鰊もそうである。
鰊は最初松前地を中心にしていたが、天明以来の凶漁と共に蝦夷地に移って行った。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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