A地において高価な物bが,B地にはふつうにある。
A地においてふつうにありガタクタでさえある物aは,B地にもっていくと珍しがられ高価になる。
A地からB地に行きそしてA地に戻ることは,ひじょうに困難でありかつ危険である。
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この条件が満たされているとき,A地の商人で
- A地でaを買う
- aをB地に運ぶ
- aとbを物々交換する
- bを持ってA地に帰る
- bを売る
に成功する者は,大金持ちになる。
この商法を「遠隔地商法」と呼び,遠隔地商法の商業を「遠隔地商業」と呼ぶことにする。
商社の商法は,遠隔地商法である。
「大航海時代」は,遠隔地商業の時代である。
B地での<物々交換>は,短期的には win-win の関係になる。
しかし,長期的には,B地を疲弊させることになる。
即ち,つぎのように:
- 遠隔地商業は拡大していく。
──新規参入者があり,そして富に対する人の欲望は際限が無い。
- 商人はbを多く得るために,B地にb産出の会社を立て,B地の者を労働力に使う。
- 商人は産出量を増やすために,雇用を増やす。
B地の民は,雇われを生業にするようになる。
共同体──従来の生業に順っていた共同体──は,ここに解体する。
- 商人は産出量を増やすために,一人あたり労働量を増やす──<労働時間を増やす>と<労働密度を高める>。
──これは,物々交換のレートをいじることで,実現できる
- いまや会社依存の者となったB地の民は,会社が示してくる交換レートを受け入れるのみとなり,過労働に疲弊していく。
- b産出は,bの取り尽くしになる。
そしてこれには,自然・生態の様々な系の損壊が伴う。
蝦夷は,このような遠隔地商業の場となった。
このときの「商人」は,近江商人が始まりである。
そして「会社」は,運上屋である。
この展開は,必然である。
異なる水位が起これば,水が流れが起こり,同水位になるまで止まらない。
遠隔であることは価値規準が違うことであり,シルクロードや北前船航路で渡されることになる。
"アイヌ"イデオロギーは,「搾取・虐待・弾圧」の類のことばを用いてこれを悪者の話にし,「自分ならこんなひどいことは決してしない」をアピールする。
しかしここには,悪者は存在しない。
ここに見るべきは,「物理」である(註)。
註. |
"アイヌ"イデオロギーは,マルクス主義に溯る。
マルクスには,サイエンティストとヘーゲリアンの二面がある。
『資本論』を著しているときのマルクスは,サイエンティストである。
『共産党宣言』を著しているときのマルクスは,ヘーゲリアンである。
ヘーゲルの思想は,《歴史は絶対理念をゴールにする》である。
どうしてこういうことになるか。
「歴史は,正反合 (弁証法) がこれのダイナミクスだから。」
ここで,この理屈を卑近に読む。
《歴史は絶対理念をゴールにする》は,《歴史は正義の実現をゴールにする》。
《矛盾の止揚》は,《不正義の退治──革命》。
こうして,ヘーゲル主義は,正義主義のイデオロギーになる。
ヘーゲリアンとしてのマルクスは,社会や歴史を正義主義で見てしまう者である。
『資本論』で「是非も無し」をやっておきながら,他では正義主義をやってしまう。
マルクスのこの自己分裂は,彼の生活者としての<怨念>に原因を求めることになる。
しかしこの種の自己分裂は,だれにとってもあるものである。
さて,言うまでもなく,歴史のゴールは絶対理念の類ではない。
単純に,滅亡である。
系のゴールは,滅亡である。
系は,いつか滅亡する。
個人は死に,人類もそのうち滅亡し,地球や太陽もそのうち滅亡する。
系の変遷は,「進化」である。
生物の進化を思うべし。
そこには「正義」だとか「悪者」だとかはいない。
そこにあるのは,「物理」である。
この物理は,複雑である。
ヘーゲルの誤りは,物理の本質的複雑を思うことができず,「弁証法」などという単純なモデルを立ててしまったことである。
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