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吉田常吉 (1962), pp.288,289
幕府は日米和親条約(安政元 [1854] 年三月調印) によって箱館港を開くことになったので、松前氏に蝦夷地の上知を命ずる前年、すなわち安政元年六月に対外問題を処理させるために箱館奉行を置いた。
その管轄範囲は箱館付近五・六里の地にすぎなかったが、箱館奉行設置から蝦夷地上知に至る数ヶ月間は、いわば蝦夷地直轄の準備時代とみなすことができる。
幕府が再び蝦夷地を直轄することになったのは、このように対外関係から発したもので、前幕領時代とほとんど同じ性質のものであった。
それで幕府は前幕領時代よりさらに積極的に防備開拓に力を注いだ。
北辺の防備としては、前には南部・津軽の二藩に命じたものを、さらに仙台・秋田の二藩を加え、ついで以上の四藩に庄内・会津の二藩を加えた六藩に各蝦夷地の一部を給与して、警衛と開拓とに当たらせた。
前幕領時代における対露問題は主として千島を中心として起こったため、千島とその通路になる東蝦夷地の経営に重点が置かれたが、この時代は樺太(北蝦夷地)を中心として日露の紛争が起こったので、樺太、および西蝦夷地の経営に重点が置かれた。
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高倉新一郎 (1974 ), pp.21,22
‥‥ 一時極東経営に消極的になったロシアは嘉永年間(1848〜1854) になって、再び今度は黒龍江戸を根拠に積極化し、清国より黒龍江の譲渡を受け、樺太の経営に乗り出してきた。
一方幕府は安政元年(1854) 締結した日米和親条約によって函館を開港することになり、箱館奉行を置いたが、北辺の事情が容易でないことを知って、松前藩には旧領地を縮少して残し、他の部分を全部再び幕府の直轄に移した。
そして今度はもっぱら西海岸の経営に力を注いだ。
しかもロシアは樺太に向かって確実な植民の地歩を進めてきたので、幕府もそれとの対抗上積極的に移民の増加を図り、前時代とはうって変わった開発政策をとった。
函館が松前に代わって北海道開発の中心になった。
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引用文献
- 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
- 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
- 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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