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東□元稹 (1806), p.43
天明二壬実 [1782] 年十二月、
神昌丸といふ船、紀州米を積、勢州白子浦彦兵衛の船にて、船頭幸太夫、上乗作二郎、水主十五人、都合十七人乗にて、駿河沖にして難風に逢ひ、楫をいため、夫より漂流に及び、
翌卯年七月廿日、
魯西亜領の内アミシイツカに漂着、
其所に四年在、
夫よりカミシヰツカに
七月廿三日に着、
夫よりオホツカへ渡り、
同所城下にて、
子年八月七日、
右神昌丸乗合の内、幸太夫、賄小市、水主豊吉ともふに、ヲロシヤ船に乗船中、
役人アダムラツクシヤマン、船頭ワシレイロブシヨブ、通辞トコロコフ、是は本朝の漂流民にて、彼國にとゝまりし者の子なるによし 道先シヤバリン、商人二人、水主卅五人、五百石積ほとの船にて、
同年九月五日、
東蝦夷キイタツフの内、ネモロへ著船せし也。
彼國を八月七日出帆、凡日數廿八日にして、九月五日着船せしと也。
其行程遠からぬか 但し暦數の違ひ少し有レ之。
扨彼國王 魯西亜王なり。 幸太夫に贈る所の烟袋有。
紺珠を以て餝 [飾] と成、松前にて彼國人にわかるゝ時に、彼國の商人金銭八十枚を以て交易せんといひしかとも、幸太夫許さすと也。
我國の金にしてみれは、八十枚は三百兩に近しと也。
彼國にて紺珠は至寶なるよし也。
寛政八辰 [1796] 年八月十五日、
東蝦夷アフタ沖に異國船一艘来る。
其船魯西亜船に似たる所有。
船長さ三拾間ほと六間はかりの巾也。
小舟四艘附レ之。
船中乗組百十人、内壹人女有レ之 名シンポン 頭分者三人、イワンツノワイチヘルトルナ、ブンツン、マッチ也。
砂糖、茶、麥、烟草、皮類等を積入本國、イリコピリタニヤ 一名アンゲリア 當辰四月出船、夫より南亜墨利加へ行、夫よりノワヤゴランテヤへ行、夫より北亜墨利亜の内、カリホニヤへ行、爰にて水薪に盡て當地方へ着、是より日本の南海をはせ、支那廣東へ商買に行よし、右乗合の者の話也とそ。
文化二丑 [1805] 年四月朔目、
魯西亜船一艘 是は長崎を
三月廿日の暁
に出し船なり。 佐渡の北沖をはせ、同五日羽州野代、同六日津軽深浦、同七日松前近く寄て西北に去。
同十四日
にはソウヤの内ノツシヤフの沖に船かゝり、
十五日
にソウヤへ上陸いたし、ノツシヤフの夷人四人ナヨホゝの夷人三人へ、兩刃真鍮の櫛三枚、縫針十本、車鋏二挺、緒留十一、内真鍮七、黒檀四、捻鐘一本、長毛我而絨、古裁、萌黄、浅黄の裂合せて八をあたへたり。
十七日
にはカラフトの内ルヲタカへ上陸し、水を取たり。
然れとも其邊の夷人は赤人を忌みきらふがゆへに近寄されは、與ふる所なし。
尤海上の速なる事如此。
三月廿日長崎出帆、同日申の刻はかりに、未申の方海上十六、七里沖に、帆影かすかにみゆるよし、沖番所より岩原へ届有レ之、四月十五日にソウヤヘ着船す。
其海上凡八百里餘也。
江戸より長崎まで三百卅里餘。江戸より松前へ二百三十里、同所よりソウヤへ二百里の所なり。
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吉田常吉 (1962), pp.284-286
‥‥ 外国船がしばしば蝦夷島の近海に出没するようになった。
それは蝦夷島をふくむ北太平洋の地理が最もおそくまで不明の中に残されていたからである。
諸外国船の出没はこの地理上の探検によるものであった。
しかし最も憂慮されたのはロシアの南下であった。
工藤平助は『赤蝦夷風説考』を著わして北辺の防備を説いた。
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高倉新一郎 (1974 ), pp.20,21
松前藩の勢力が蝦夷地に伸びると、ここで外国の勢力と接することになった。
樺太島はすでに十四世紀の元の時代から中国の勢力が及んでいたが、十八世紀には満州の勢力が、黒龍江下流に住む人々 (山担人) を通じてその北部に及んでいた。
千島方面では十七世紀の終わりに、シベリアを横断しカムチャッカを征服したロシアの勢力が千島列島沿いに南下し、十八世紀の終わりには得撫島を根拠に、松前に向かって通商を望んできた。
また十六世紀中頃からすでに北海道に着眼していたが鎖国政策によって中絶せざるを得なかったヨーロッパの関心が英仏両国によって再びこの方面に向けられ始め、探検船が派遣されるようになった。
我が北辺は急に多事になった。
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引用文献
- 東□元稹 (1806) :『東海參譚』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.23-44.
- 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
- 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
- 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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