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高倉新一郎 (1969 ), pp.13,14
幕府による蝦夷地調査は天明五 (一七八五) 年に始まる。
即ちこの時の老中 田沼意次は、
わが北辺にロシアの手がのび、次第に近づきつつあり、しかもわが国との通商を渇望していることを知り、部下に命じて実情を調査せしめたが、松前藩を通じては充分な調査が出来ないことを知り、
普請役山口鉄五郎高品外四名を派遣し、翌年に亘って蝦夷地の実情を明らかにした。
蝦夷地及び北辺の情況はこの調査によって始めて明瞭になったといってよい。
この調査隊の先鋒は未だわが国探検家の足跡が及ばなかった択捉・得撫両島に至り、そこにすでにロシア人の手がのびている実情を知り、
樺太は久春内まで足を伸ばしてそこに満州の勢力が及んでいる実情を見ていた。
幕府はこれによって始めて北辺の重要性を知り、その開発策をたてたが、意次の失脚によって実現を見ずに終わった。
しかし幕府の目が北辺からそらされたわけではなかった。
対策がひそかに準備されていたのである。
寛政元(一七八九)年には、国後及ぴそれに近い蝦夷島の東端目梨の蝦夷が騒動を起こすという事件が起こった。
幕府は直ちに幕吏を派遣して真相を調査し、
松前藩が財政の窮迫から辺境の経営を場所請負人と称する商人に託し、
請負商人は営業継続のため蝦夷を酷使している
ことから発したことを知ると、
寛政三 [1791] 年から幕吏を派遣して御救交易と称して東蝦夷奥地に実際にこれを試みさせ、翌年更にこれを宗谷で行なった。
ところが、その年、ロシアの使節ラックスマンがカムチャッカに漂着した漂流民を送って根室に来舶し、通商を求めた。
幕府は目付石川左近将監忠房、村上大学義礼を松前に派遣し、翌年これに面接して漂流民を受取り、通商の事は聞届けることはできないが、なお云うことがあれば長崎に来るようにと諭して帰した。
その口約によって、文化元 (一八〇四) 年ロシアの正使レザノフが長崎を訪れることになるのだが、それが必ず行なわれるであろうことは予想されていた。
寛政六 [1794] 年には英国船が房州下浦に来て漁民に砂糖を与えて去り、
寛攻八 [1796] 年には英国の航海者「ブロートン」が北日本の海図作製のため絵鞆に入港して約二週間滞在し、翌年また来航して十日程滞在し、津軽海峡を西に向って通過して行った。
当時の異国船来航年表を見ると、同年対馬附近、房総沖などにも異国船が出没している。
単なる漂着ではない。
明らかに目的があり、わが北辺の海域をわが国以上に詳しく知り、近海を自由自在に乗廻しているのを見ると、幕府もすててはおけなくなり、
寛政十 [1798] 年の調査となったのである。
そしてこの結果によって、幕府は東蝦夷地の直轄を決意し、
十二月二十七日、幕府書院番頭松平信濃守忠明外この調査に当った者等を蝦夷地取締御用掛に任命して、幕府の蝦夷地直轄が実現したのである。
この挙によって、蝦夷地の面目は一新した。
従来松前氏によって異地域とされ、全くの異国民扱を受けていた蝦夷は、国民として百姓の取扱を受けるようになり、
未開の蝦夷地には道路がつけられ、駅逓が置かれ、新に漁場が開かれ、根拠地が整備されて、
蝦夷地は急激に開発されて行った。
西蝦夷地の直轄は東蝦夷地より遅れて文化四年であり、
幕府の政策も東蝦夷地に比して消極的ではあったが、
開発は幕府の蝦夷地直轄を境に急激に進んだのである。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1969) :『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969.
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