Up 名目だけの管理 作成: 2019-01-01
更新: 2019-01-01


      高倉新一郎 (1959 ), pp.162,163
    藩は、東蝦夷地では
       山越内・絵鞆(えとも)・様似・釧路・厚岸・根室・国後・擇捉
    の八箇所に、西蝦夷地では
       石狩・宗谷・樺太
    の三筒所に勤番所を置き、物頭もしくは頭役以上を派遣し、年々交代せしめた。
    勤番は警備だけではなく、幕府の詰合のようにその地方の行政監督を任としていた。
    勤番人数は総数百六十人であったが、天保十四年(1843) には二百二人に増加した。
    この外に在住足軽というものが三百余人配されていたが、これは場所請負が派遣している番人であった。
    勤番の士には、かつて上乗役に加えられた批難と同様なものが加えられていた。
    すなわち天保九 [1838] 年、水戸藩の内命を奉じて蝦夷地を内偵した大内清右衛門の談にも、
     「蝦夷地へ出張の役所は、其支配場所を一ヶ年に一度廻り候而己、
      尚又場所通ひの船より届書請取而己、
      何の勤めなしに居侯様子に相聞申候。」
         (北陲対問)
    とあり、嘉永六年(1853) 蝦夷地を巡回した幕吏の報告にも、
     「 右勤番のもの、年々輪番五ヶ年目一周仕り、家中手当と号し、夫々所務を楽といたし相詰居候儀に而、平時閑暇之節武技砲術訓練等心懸義等無之候。」
       (掘・村垣意見書〉
    といっている。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959