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高倉新一郎 (1959 ), pp.116,117
[工藤] 平助の意見 [『赤蝦夷風説考』] に動かされた幕府は、
幕吏に命じて蝦夷地の事情を内偵させると共に、
松前藩に対して事情報告を求め、松前藩の解答が充分でないのを口実にして
普請役山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎等五名、下役五名計十名よりなる調査団を派遣し、
二隊に分れ、
一隊は西蝦夷地から樺太まで、
一隊は東蝦夷地から国後・擇捉・得撫の三島は勿論、千島列島の島々をできるだけ深く入り、
地理産物をはじめ異国との交易状況等を探険することになった。
一行は天明五年 (1785) 春江戸を出発し、松前着、藩と打合せ、案内人・通辞・医師等を添えられ、
東蝦夷地は山口鉄五郎・青島俊蔵等、
西蝦夷地は佐藤玄六郎・庵原弥六等が受持った。
東蝦夷地を受持った一行は進んで国後島に行き、擇捉島に渡る機を窺ったが、季節に後れて
先に進むことができず、いったん松前に帰った。
西蝦夷地を受持った一行は、樺太の南部海岸通りタラントマリからシレトコまで九十里にわたって見分け、さらに蝦夷島のオホーツク海岸を検分した。
そして翌年にはさらに進んで、東は遂に得撫島に達し、西は樺太西海岸のクスンナイを極めた。
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同上, pp.117,118
‥‥ 蝦夷地のことはこの挙によって飛躍的に明らかになった。
調査隊の一行が、新井白石の「蝦夷志」を補う意味で「蝦夷拾遣」と名付けて残した蝦夷地の地志は、蝦夷島の地理大概・人物・産物・言語・隣接地の情況等を内容としているが、「蝦夷志」などは比較にならない豊富さと正確さを持ってその全貌を明らかにしている。
さらに、この一行に加わって得撫島までを極め、擇捉島に滞在していたロシヤ人につき奥地の事情を詳しく知った最上徳内は、「蝦夷草紙」を著してさらにその詳細を記述している。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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