Up 場所知行制・オムシャ : 要旨 作成: 2018-11-19
更新: 2018-12-14


      吉田常吉 (1962), pp.289-291
    松前藩の給与法
    松前藩は領内に農業が発達せず、ことに米穀の収穫がなく、年貢米の皆無な松前藩としては、おのずから他藩と異なった独自な給与法が行なわれた。
    それは蝦夷地を数多(あまた)の場所に区分して、これを藩士に給与するという方法であった。
    それで給地を持つ藩士を場所(もち)、或は支配所持といって、蔵米を支給される切米取よりも格が上とされていた。
    場所
    この場所が蝦夷地に設定された年代は明らかでないが、大部分は慶長年間 (1596-1614) に区画されたものといわれ、その後に開かれた所は、多く遠隔の場所であった。
    そして場所の広さは一定せず、一場所と称するのは、口蝦夷地では大体今の一郡に相当し、或はこれよりも狭いことがあり、奥蝦夷地では大体今の一郡ないし一国に相当していた。
    この場所の範囲は松前藩がきめたものでなく、蝦夷の酋長の勢力範囲で、部族の共同漁猟場の境界が基礎となったようである。
    また産業の盛衰によって併合或は分離され、次第に境界が樹立されていったもので、場所が地域的に固定されるのは幕府直轄以後のことで、それまでに幾多の変遷があった。
    オムシヤ
    場所を給与された知行主と知行場所に住する蝦夷との関係は、オムシヤという儀礼を通じて結ばれていたようである。
    オムシヤは蝦夷語のウムシヤの転訛で、ウ=互に、ムシヤ=撫でさする、からきている。
    すなわち、蝦夷が久しぶりで会った際、たがいに身体を撫であって久濶を叙する礼式である。
    場所を知行されたことで蝦夷の酋長と友好関係に入った知行主は、年に一度蝦夷地に介抱と称して、蝦夷の欲する品物を積んで知行場所に赴き、オムシヤを行ない、友好の印として持参の土産を贈る。
    蝦夷もまた友好の印として土地の産物を返す。
    この蝦夷からの土産が知行主の収入となるのである。
    こうして友好的な儀礼から出発したものが、後に両者の勢力に懸隔ができるに従って、オムシヤは知行主が蝦夷に恩恵を施し、またこれを機会に掟書を読み聞かせたりする支配的儀式となって残り、交換の方は純粋に経済的な目的となり、蝦夷の産物を獲得するために交易船が派遣されるようになったのである。
    蝦夷との交易
    この交易船は、藩主が直領に派遣するものには制限がなかったが、藩土の場所持が知行所に派遣するものには制限があって、毎年一場所一艘と定められていた。
    これに使用される船は縄綴船といって、木を(えぐ)って作った船敷に側板を木皮で綴じた船で、三百石内外から大きくて五百石積どまりであったが、吃水が浅くて何処へでも引上げて碇泊することができ、綴を切ると簡単に囲うことができる便利な船であった。
    場所持は相手にきめられた蝦夷の酋長の居所付近で、船付もよく、蝦夷も集合しやすい場所に船を派遣して交易をした。
    交易を行なう間は丸小屋に起居したり、或は蝦夷の家を借りていたが、交易が盛んになるに従って交易所が設けられるようになった。



    引用文献
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.