Up 松前藩 : 要旨 作成: 2018-12-14
更新: 2018-12-29


      吉田常吉 (1962), pp.280,281
    松前氏の蝦夷地経営
    応永の末年から永享の初年(1420─30)にかけて、津軽の豪族の安東氏は南部氏に追われ、海峡を渡って蝦夷島に入ったが、間もなく旧領回復のために出羽に去った。
    その間に(かみ)(くに) (今の桧山郡上国村)に拠っていた蠣崎氏が、安東氏の代官という形式で次第にこの地方に勢力を張るようになり、三代義広に至って、上ノ国から松前の大館に移り、蝦夷島の和人を統一し、安東氏の代官として蝦夷島を管轄するこことなった。
    ‥‥ 五代慶広(よしひろ)は文禄二年(1593) 朝鮮征伐のため肥前の名護屋滞在中の
    秀吉に謁し、蝦夷島支配の朱印状を与えられ、ここに蠣崎氏は一領主と認められ、公然と安東氏の配下を脱して独立した。 ついで慶長四年(1599) 慶広は大坂で徳川家康に謁し、姓を松前と改め、さらに同九年(1604) 家康からも蝦夷島支配の黒印状を授けられたのである。
     ‥‥
    和人地と蝦夷地
    こうして松前慶広は江戸幕府から蝦夷島の支配権を認められたが、当時和人は日本海岸は熊石付近から、津軽海峡面では汐首岬付近に至る、城下福山を中心とした東西各約二十五里の地に住み、蝦夷もまたこの地に雑居していたが、それ以外の地はすべて蝦夷が占拠していて、まだ支配が及ばなかった。
    それで慶広は現状によって和人地と蝦夷地を区画し、和人地には従来雑居していたもの以外の蝦夷の来住を禁止し、また蝦夷地には和人の往住を許可しなかった。
    そして和人地と蝦夷地との境界には関所を設けて出入の者を取締ったが、その番所は西は熊石、東は亀田に置かれていた。 しかし和人地の地域が拡大するにつれて、東の番所は後年になって亀田からさらに北方の山越内に移された。


      高倉新一郎 (1959), p.24
    ‥‥ 松前藩は、城下・江差・箱館等の要港及ぴ熊石には番所を設け、出入の船舶及び旅人を取締り、みだりに蝦夷地に出入することを許さず、蝦夷地に赴く者には切手を与え、許可料すなわち運上金の納入を条件として特定の産業に従事することを許したのである。
     蝦夷地の産業としては蝦夷との交易の外に、鷹打・砂金採取・鮭漁・鱒漁・海鼠引・紫根掘等があったが、松前藩は自らこれを行う外に、一定の運上金を納付する者に条件を定めてこれを許した。
    蝦夷交易だけは、蝦夷保護の意昧があったので、家臣以外には許さなかったが、他の部面は願い出る者に許した。



    引用文献
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959