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高倉新一郎 (1942), p.12
‥‥‥ 植民者たる内地人の勢力のかゝる膨脹は原住者たる蝦夷の利益と必然に衝突せざるを得なかった。
殊に本州より渡来し定着した内地人のほとんど総てが漁人であり、且つ商業の発達しない時代には、統治者は是等漁民より直接現物税を取るか、若しくは『蝦夷國私記』の著者が指摘してゐるように、豪族自身すらが漁業を経営することに依て生活せねばならなかった。
故に内地人の増加に伴なって漁場の拡張を必要としたであろうし、是が又蝦夷の既得業漁猟権と衝突しないわけには行かなかったことは想像に難くない。
而も内地人も最初は蝦夷の勢力に比して人数も尠なく、勢いも乏しかったから、なるべく蝦夷との衝突を避けてゐたらしいが、その独自の活動が始まるにつれて、蝦夷との衝突は免れることが出来なかった。
其衝突は康正二年( 一四五六)、志苔の鍛冶村 (現在函館市) の一工が、註文主である蝦夷の酋長と作品に就いて議論し、憤慨の余り酋長を刺殺した事に端を発したと言はれ、憤慨した蝦夷が諸方に起って復讐的に内地人を虐殺した時に始まり、翌長禄元年( 一四五七) 東部の酋長コシャマインは進んで福山に逼らんとし、蝦夷の勢頗る強く、諸館相継いで陥り、内地人の根拠地はほとんど奪われ、辛うじて虐殺を免れた内地人は松前と上國に集まり、蠣崎氏の祖武田信広の奮闘に依て僅かに其足場を保ち得たに過ぎなかった。
内地人と蝦夷との関係はこの乱を境として著しく悪化して行った。
其後記録に残されたもののみでも、文明三年(一四七一)・永正九年(一五一二) の両乱を挙げることが出来る。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1942) :『アイヌ政策史』, 日本評論社, 1942
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