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高倉新一郎 (1942), pp.12,13
而もこの叛乱 [コシャマイン] に依て諸館相継いで没落し、若くは痛手を被った中に、殆ど孤軍奮闘、強力なる蝦夷に対抗して克く内地人の根拠地を北海道に支持し得たものは実に蠣崎氏であった。
故に、蠣崎氏の勢力は次第に強く、島内諸館主を統一し、永正十一年 (一五一四) 福山に移り、蝦夷島のことを挙げて安東氏より一任せられ、蝦夷島における実権を掌握するや、余力を以て蝦夷の鎮定に努力することとなった。
而も内地人と蝦夷との紛争は未だ止まず、永正十二年 (一五一五)・大永五年 (一五二五)・享禄二年(一五二九)・同四年 (一五三一)・天文五年 (一五三六) 等十五年間に五回を数へている位であって、当時蝦夷の勢猖獗を極め、内地人は常に防禦の形をとるのみで是に対抗する能はず、佯り和して、虚に乗じて是を打つこと数回におよんだ位であった。
然し最後の勝利は内地人の手中にあった。
蠣崎氏はよく是に耐えて、遂に福山を中心とする数十里の地を根拠地として確保し、蝦夷島の内地人を統一して、その植民活動の一大飛躍に備えることが出来た。
此処に於て、蠣崎氏は蝦夷と事を構ふるの不利を見て政策を一変し、和睦を図り、天文十九年(一五五〇) 信広の曽孫季広は蝦夷の愛重する宝器を多く準備し置き、是を与えて歓心を買い、東西の蝦夷と媾和し、さらに瀬多内の蝦夷ハシタインを召寄せて上國天川地方に置き、以て西夷の酋長とし、知内の蝦夷チコモタインを東夷の酋長とし、諸国から来た商買に夷役と称する税を出さしめて是を両酋長に分配することにした。
同時に蝦夷の商舶往来の制を定め、往来する蝦夷の商舶は西は上国沖、東は知内沖を過る時は必ず帆を卸して休み、是等二酋長に一礼なして敬意を表せしむることにした。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1942) :『アイヌ政策史』, 日本評論社, 1942
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