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高倉新一郎 (1959), pp.30,31
当時出稼人で蝦夷村に、駐るものが多かったことは、其後元禄元年(1688) 石狩を訪れた水戸の大船快風丸記事にも、石狩川を遡って探険した者の話として
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日本ノ船人漂泊シテ此所へ漂着、船損スレハ帰ルコトナラサル者十四五人蝦夷ニ留リ、蝦夷女ヲ妻トシ、夫婦ト成、子供モ出生シテ住宅スル者アリ。」(快風丸記事)
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と記し、石狩川中流今日の滝川付近に居城を構え、その辺一帯に勇名を轟かしていたハウカセにも和人の女婿がいた。
こうして蝦夷地の中に入って有力者にたよって生活するものが、彼我の関係を探くして行ったことは、奥羽や松前で同化されて行く過程にもあったに相違ない。
ただこうした人に鷹打や漂流民が多く、金掘がいないのは、鷹打等は個人行動をしているが、金掘は集団行動をし、冬になると引揚げたためだったろうと思われる。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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