Up アッケシ 作成: 2018-12-04
更新: 2018-12-04




      松田伝十郎 (1799), p.82
    一、當アツケシの儀は東蝦夷地第一番の大湊にして、未申をうけ、澗口に大黒嶋、恵比壽しまとて小嶋あり。
    沖合何程の時化にても澗内に舶繋ぐ時は少も愁なし。
    會所前は海、後は山續にて、家材、舶具等(に)もなるべく、樹木多し。
    エゾ松、トゞ、イタヤ、桂其外雑木茂り居、漁業は鯡、鱒、鮭、鱈、煎海鼠、昆布、此品々を以産業と致し、其外(かれい)、鰯の類雑魚多し。
    山に入ては熊幷鷲を獵し、尾、母衣(ホロ) (鳥の脇の下の羽根) を取て、會所へ出し交易す。
    熊を雲中に獵し、穴熊とて膽(胆)を上品とす。
    澗内より續き入江あり。
    此中一圓に(かき)生じ、土人かきがら沼と呼ぶ。
    本邦の産に異なること、大きさ尺五、六寸位にして身もそれに准じ、食するに割庖(ほうちふ)を用ひざれば食しがたく、こわくして味ひ薄し。
    一、此所より東西へ陸通路成がたく、‥‥

     同上, pp.82-84


      同上, p.83
    一、アツケシ惣乙名イコトエ 人名 と云者、東地壹人の人物にて尤悪類なり。 人をも殺し、舊悪あるものにて器量もあり、居村其外場所々々にウタレ 家来のことなり と稱する夷男女五、六十人あり。
    ポンマチ 妾のことなり 三十人程もあり。
    御趣意の趣申(さと)しければ、ウタレの内無妻ものへ我が妾を夫々に分ち遣し、三人を残して寵愛す。
    夷人寶と稱する物 刀,脇差し,袴,塗ものゝ類 澤山所持す。
    是は松前家進退の節所々へ相越し、チヤアランケ 公事喧嘩のこと といふを仕掛て、メツカ打 是は(かた)木を以長さ四尺餘にして穂の方ふとく,いぼいぼを附る棒。是を以打たゝき合するを云。 と云をなし、(まけ)たる方より(つぐなゐ)に取りし由。
    東地一番の寶持と稱する。


    引用文献
    • 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175